世界遺産長崎・野崎島で発見した「人生のピンチ」突破術。
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    2018.06.18

    世界遺産長崎・野崎島で発見した「人生のピンチ」突破術。

    b*p

     

    「夢の跡」って、いいよね(くーッ!!)

    夏草や兵どもが夢の跡

    突然ですが、まずは超有名なこの一句から。

    松尾芭蕉は、1689年5月13日(今の6月29日)に平泉(岩手県)を訪れました。そこ出会った夏の草原を「夢の跡」と詠み、平安末期に平泉を拠点にブイブイいわせていた貴族・藤原氏一族と、この地で切腹した源義経のことを思って、彼らのかなわなかった夢をしのびました。

     

    栗原信充/画 『肖像集』(国会図書館所蔵)

    芭蕉の句から150年ほど後、独立して間もないアメリカのボストン郊外コンコード村で、ヘンリー・デイヴィッド・ソローが、ウォールデン池にカヌーで漕ぎ出します。

    池の底に小山のように積み上げた丸い石を発見し、ソローは想像します。

    「この石の山は、ひょっとすると先住民たちが遺した道標かもしれない」と。

    ソローは、インディアンの矢尻(石器)を拾う名人でした。毎日何十キロもの散歩をして、自然の中に遺された過去の痕跡を観察し、じっくりと思索を深める。そんな習慣の成果として、アメリカ文学を代表する古典名著『森の生活』が生まれたのです。

    H・D・ソロー著・今泉吉晴訳『ウォールデン 森の生活』上下

    松尾芭蕉の夏草。ソローのウォールデン池。このふたつに共通するのは、風景のなかに「記憶されたもの」をとらえる目線、風景に「夢の跡」を見いだす力です。

    それは、日々、スマホ上に登場する「情報」とは違う、もっと長大でゆるやかな時間が刻みこんだ「記憶」です。太古から受け継がれてきた、はるかなる人々の営みです。

    荒れ果てた草むらや、森にたたずむ池の底に。切り立った山の上や、絶海の孤島に。かつて人が生きていたという記憶が刻み込まれているのです。

    そんな「夢の跡」を、記憶を読み解きながら、旅する。

    まるでレコードの溝をなぞるレコード針のように、感覚を全開にしながら、のんびりと旅をしてみたい、と思いました。

    そんなわけで、今回のぼくらb*p取材班の目的地は、長崎県五島列島の「野崎島」。日本を代表する「夢の跡」です。

    空海も最澄もみんな五島列島から旅立った

    延暦23年(804年)、空海(当時30歳)と、最澄(当時38歳)は、大阪から瀬戸内海を西に進み、博多、平戸島をへて、五島列島南西端の福江島に向かいました。

    空海・最澄が旅立つおよそ100年前には、「貧窮問答歌」の歌人・山上憶良(当時42歳)も、同じく五島列島から唐へと旅立っています。

    そう、長崎県・五島列島の島々は、奈良・平安時代のトップエリートたちが、希望に胸を高鳴らせながら風を待つ「日本最後の地」だったのです。

    いまの時代でたとえるならば、ハーバード大学に留学する学生や、メジャーリーグに挑戦する大谷翔平選手が、出国直前に離陸を待つ成田・羽田空港の出発ロビーのような場所でした。

    当時の唐が、どのくらいおしゃれで、イケてる国だったか? そしてぼくらの祖先が、海の向こうの文物にどのくらい恋焦がれていたかは、正倉院に残る9000点を超える宝物を思い浮かべることで、想像がつきます。

    唐やペルシャなどから持ち帰った絵画・書・経典・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面……。なかには大仏に眼を描くための筆や、シナモン、甘草などの漢方薬も「宝物」として収蔵されていて、今も国(宮内庁)によって大切に保管されています。

    五島列島が遣唐使のルートになったのは、大宝2年(702年)、ちょうど山上憶良が派遣される遣唐使船からのことです。白村江の戦いで日本・百済連合軍が破れ、676年に新羅が朝鮮半島を統一したことで、従来使っていた朝鮮半島経由の北ルート「博多→対馬→朝鮮半島→登州(今の煙台付近)」が使えなくなったのでした。

    その代わりに選ばれたのが、「博多→五島列島→揚子江河口(今の上海付近)」という南ルート。このルートは対馬海流を横断するため、北ルートの何倍もの危険を伴い、遭難も頻発したといわれています。

    「もしかすると、この航海で、死ぬかもしれない。だけど、海の向こうに渡ることができれば、日本にない最先端の学問芸術、美しいアートやイケてるグッズを持ち帰ることができる……」

    山上憶良や、空海、最澄が、日本を旅立つ最後の地、五島列島で見上げたのは、はたしてどんな夜空だったのでしょうか。

     

    世界遺産のハイライト「野崎島」にどうやって行くか?

    さて今回、ぼくたちb*p取材班がめざすのは、そんな五島列島の北東部にある「野崎島」。

    この島に残る「旧野首教会」を含む集落跡は、2018年6月30日に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」全12資産)のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されたばかり。

    野崎島は、全12資産のなかでも屈指のすばらしい絶景秘境で、今回の世界遺産のハイライト中のハイライトといえます。

    さて、まずは、その野崎島にどうやって行くか。計画を立てました。

    野崎島には五島列島北部の小値賀(おぢか)島から町営船で渡ります。

    拠点となる小値賀島に行くには、長崎の佐世保港からフェリー(約3時間)か、高速船(約2時間)に乗るのが基本ですが、そのほかにもうひとつ、福岡の博多港からフェリーで行くという方法があります(約5時間)。

    本場の佐世保バーガーを食べてみたいし、防空壕を改装した市場や横丁にも行ってみたい。以前、『b*p』vol.2で取材した潜伏キリシタンの島・黒島も佐世保の対岸にあるではないですか。ちなみに黒島の天主堂も、全12資産のひとつとして世界遺産に登録決定しております!

    というわけで、佐世保もよいなー、と迷いに迷ったのですが、やはり遣唐使のルートをたどることにしました。なんたって、あの空海も旅した、日本一由緒ある「海の道」なのだから!

    福岡空港まで飛行機で飛び、まずはこちらから。

    船に乗る前に、「元祖長浜屋」のラーメンを。もちろん、替え玉まで堪能!

    そして夜、その名も「太古」というフェリーで、博多港を出航しました。

    博多フェリーターミナルを、フェリー「太古」は23:45に出航し、翌朝4:40に小値賀島に到着します。ミッドナイト・フェリーボートなのです。

    (このフェリー、新しくてピカピカできれいで快適ですが、天候によっては博多湾から外海に出るとけっこう揺れます。乗船前の食べ過ぎ、飲み過ぎには要注意です)。

     

    町営船に乗り換えて、いざ野崎島へ!

    ボォォ〜! ボォォ〜!

    翌朝4時40分、小値賀島に着岸。

    まっ暗な中をタラップを伝って下船し、野崎島行きの町営船が出る7:25ころまで、仮眠することにしました。

    フェリーターミナルの建物には「仮眠室」がありました。女性用の仮眠室は、ちゃんとドアがついた小部屋なんですが、男性用の仮眠室は、床に畳を何枚か敷いて、衝立でかこっただけというシンプル空間。3〜4人横になれるスペースが、あいにく先客でいっぱいになってしまっており、ぼくらは待合室のベンチで眠りにつくことにしました。

    (学生のときに駅に泊まって以来だなぁ……というまに入眠。ZZZZZZ)

    それから数時間後のこと。

    「☓☓☓☓……」

    「そやけん、◎時の切符とれとっと?」

    「佐世保行きフェリーの◎△□◎△□……」

    むにゃむにゃ……と、目覚めると、朝6時台というのに、こんなに早くから切符を買いに来ている島のおじさんが目の前に立っているではないですか。待合室を見渡せば、ほかにも数人、島の人があちこちに座っています。

    こ、こんなとこでヨダレ垂らしながら寝ててすみません! 

    みたいな気持ちになりますが、島の人たちは、なーんにも気にしていないふうです。毎朝早朝に船が着くのだから、きっとしょっちゅう目にしているのでしょうね。ぼくらみたいにベンチで、ヨダレ垂らしながら寝ている人なんて……。


    7時25分。小さな町営船「はまゆう」に乗って、ふたたび海に出ました。

    時折、風に舞う波しぶきを浴びながら、ただただぼーっと海を眺めるひととき。最高です!

     

    「人口たった3人」の島

    20分ほどで、小さな島に着岸しました。

    どうやらここはまだ目的地ではないようです。

    おじさんがひとりだけ、降りていきます。岸には頬かむりしたおばさんが迎えに来ていました。

    「ここは、人口3人の島」

    切符切りのお兄さんが、にやりと笑いながら教えてくれました。

    「六島」(むしま)という島だそうです。

    エンジン音が高まり、船はふたたび岸壁を離れました。

    おばさんとおじさんが連れ立って、ゆるい坂道を登っていきます。

    ふたりの後ろ姿が、だんだんと小さくなっていき、白い航跡の向こうに豆粒のようになっていきました。

    船がざぶりざぶりと上下に揺れて、そのたびに、小さな島がぷかりと顔を見せては、波間に消えました。

    町営船は、朝と昼過ぎ、一日に2便しかありません。

    だから、買い物に行くにも、病院に行くにも、それだけで泊まりがけになってしまうなんてこともあるのでしょう。

    不便ではあるけれど、それでも島を離れずに、こんなにこぢんまりした島で暮らしている人がいるんだな。

    ワンクリックでなんでもすぐに商品が届く世の中で、安いとか速いとか効率とかとはまったく別の何かを大切にして生きている人たちがいる。そのことを思うと、胸をおしつぶされるような気持ちになります。

    おじさんとおばさんの後ろ姿が見えなくなったあとも、海の向こうに小さくなっていく六島をずっと眺めていました。なんだかとてもよい光景でした。

     

    潜伏キリシタンの村

    それから10分ほどで、野崎島が見えてきました。

    馬の背中のような形の山脈に沿ってしばらく走り、やがて山が途切れたと思ったら、島の中央部に平地が現れます。

    視界がぐわーんと旋回し、トクトクトクとエンジンの鼓動がゆるやかになって、小さな湾に着岸しました。

    ちゃぷん、ちゃぷん、と波の声を聞きながら、上陸。

    ここからは、歩きです。

    波止場のすぐそばに、朽ちかけた木造の家が残っていました。

    こちらは「野崎」集落の跡です。鬱蒼とした照葉樹が屋根に覆いかぶさっていて、その影に入ると、ひんやりと涼しい。人々がここで暮らしていたころのざわめきを、しばし想像してみます。

     

    絶海の孤島に移り住んだ潜伏キリシタンたちの歴史

    長崎県の世界遺産推進課ホームページによると、潜伏キリシタンたちが野崎島に移住することになった経緯は、おおよそ次のような物語です。

    1549年、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えキリスト教が広まっていきますが、1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令、1612年・1613年の江戸幕府による禁教令により、教会堂は破壊され宣教師は国外へ追放されました。

    1637年に勃発した島原・天草一揆(島原の乱)が鎮圧されると、幕府は、宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船を追放し、鎖国体制を敷きます。

    1644年に最後の宣教師が殉教し、残されたキリシタンは「潜伏」して信仰を続けました。

    17世紀後半の大規模なキリシタン摘発事件で、その多くは棄教、あるいは殉教(信仰を守って死去)します。が、少数の潜伏キリシタン共同体が長崎の外海、平戸、天草、熊本の崎津集落に残りました。

    野崎島に人が住みはじめたのは18世紀のことです。

    1716年に、捕鯨や酒蔵業で富をなした小値賀島の豪商・小田家によって開拓がはじまります。しかし、急峻な地形と、風の強さのために開拓事業は頓挫しました。

    その後、1797年、耕作民を求めていた五島藩が対岸の大村藩と協定を結び、長崎・外海地域からの開拓移民を募る政策をはじめます。藩が主導した「五島列島移住ブーム」です。

    野崎島の中央部には、潜伏キリシタンたちが移住し、「野首」集落を開拓しました。

    また、ある日、大村藩の海岸で、小値賀島の船問屋が処刑直前の3人のキリシタンを発見します。このまま放っておくと死んでしまう3人を見捨てることができなかった船問屋は、3人を船に乗せて野崎島に逃しました。そのようにして、島の南部に「舟森」集落が開かれました。

    野崎島は、遣唐使の時代から神道の聖地だったようです。昔から沖ノ神嶋神社の神官と少数の氏子が住んでいたため、移住してきた潜伏キリシタンたちは、神社の氏子となって信仰をカモフラージュしながら、ひそかに潜伏キリシタン共同体を維持しました。

    1859年、鎖国政策が終わります。

    横浜、函館、長崎が開港し、1865年、大浦天主堂で、約200年ぶりに欧州の宣教師と潜伏キリシタンが再会しました。「信徒発見」とよばれる、世界史的にも画期的な出来事で、めでたしめでたし一件落着……となったのでは? と思ってしまいますが、まさかの展開が待ち受けていました。

    野首集落の潜伏キリシタンたちは、翌年の1866年、長崎の大浦天主堂を訪れます。彼らの一部は、カトリックの洗礼を受けました。

    しかし、明治政府も、江戸幕府と同じくキリスト教を禁じていました。むしろ、新政府体制のもとで潜伏キリシタンへの弾圧が強まっており、1869年(明治2年)前後には野崎島の野首集落、舟森集落のキリシタン五十数人全員が捕らえられ、平戸や小値賀島に護送されて拷問を受け、家財も没収されてしまうのです(この迫害事件は「五島崩れ」と呼ばれています)。

    (参照:「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター」ホームページ

    その後、西洋諸国が強く抗議したために、1873年、ようやくキリスト教が解禁されました。野崎島の潜伏キリシタンたちは、1882年に木造の教会を建て、その後、鉄川与助に設計施工を依頼し、1908年にレンガ造りの教会を建てます。

    第二次大戦後の1950年代には、島全体で650人もの人々が暮らしていました。キリスト教徒の村が2つ(野首と舟森)、神社を中心とする神道の村がひとつ。ぜんぶで3つの村がありました。

    しかし、『シマダス』によれば、1966年には舟森集落の住民全員が島を離れます。1971年には野首集落の最期のキリスト教信者が島を離れ、1990年代には、一般の住民はすべていなくなってしまいました。

    そして2001年、最後の住民だった神社の神官が島を離れました。

     

    ヤッホー! 秘境島ハイキングで教会へ

    段々畑の跡を抜け、ゆるやかな坂を登っていきます。

    坂を登っていくと、眼下に美しい砂浜が見えてきます。

    港から15分ほど歩くと、木造の小学校校舎跡が現れました。

    ここでトイレを借りて、一緒の船でやってきた女子グループやカップルたち、カメラを持ったおじさんたちとともに、教室でお茶を飲んだりしながら、しばし休憩することにしました。

     

    旧野首教会はいかにして建造されたのか?

    学校の裏にまわると、緑の丘の上に、旧野首教会が建っていました。

    想像していたよりも、小さい。けれど、とても美しい。

    がっしりとした重々しいレンガ造り。

    こんなに切り立った丘の上に、よくもまあこれだけたくさんのレンガを運んだものですなぁ。

    信仰の自由が認められると、島のキリスト教徒たちは、まず最初に木造の教会を造りました。1882年のことです。

    その後、信徒たちは17世帯で一日2食の共同生活をすることで倹約し、キビナゴ漁でこつこつと資金をためて、教会建築の名棟梁・鉄川与助にレンガ造りの教会を依頼します。

    総工費3000円(現在の約2億円)を、小銭で現金払いしたんだとか。

    1908年に完成。今から110年前のこと。

    今よりも、ずっと不寛容だった時代のこと。差別や偏見がもとで、嫌な思いをすることも多かったでしょう。

    300年近くにわたるキリスト教弾圧に耐えぬいて、苦しみを何世代もの忍耐で超えてゆき、村人みんなの力でお金をためてようやくこの教会を建てて祈ったとき、どれほどの歓びだったのでしょうか。うーむ、ちょっと想像できません。

    わたし待〜つわ♪ 
    船が来るまで待〜つわ♪

    教会の中でひっそりとした時間をすごしたあとに、丘を下って、海岸を散歩しました。

    船で一緒だった若いカップルが、大きな岩のかげにピクニックシートをしいて、ワインを空けたりなぞして優雅な時間を楽しんでおります。

    ざざぁー、しゃわしゃわしゃわ……。

    波の音がやわらかく耳に響き、くすぐったかとです。

    帰りの船まで時間がたっぷりあるので、島の端っこの集落まで歩いてみるという選択肢もありました。

    でも、けっこうな距離がありそうです。

    しかも眠かった……。

    昨晩の船が早朝に着いたこともあって、結局、3時間くらいしか眠れなかったからです。

    で、港の北側にすごくいい草原を見つけたので、ちょっと昼寝をすることにしました。

     

    心が折れそうになる状況は、誰のジンセイにもやってくる

    青い海。陽だまりの温かさ。草の匂い。

    つまりは、最高にピースフルな昼下がり。

    ぼんやりと夢うつつの中で考えました。

    あの教会を建造した信徒たちは、いったいどこへ行ったのだろうか。まさに血と汗と涙の結晶。あんなにもすばらしい教会を造ったのに、なぜこの島は無人島になってしまったのだろう。

    もはや「潜伏」する必要がなくなった、ということなのかもしれません。もともと、迫害から逃れて自由に生きるために、この島に移住してきたのだから。いまなら日本中どこでも自分の信仰を守ることができるのだから。

    あるいは、日本が高度成長期をへて、都会に出なければ仕事や現金収入を得ることが難しくなったからなのかもしれません。こうして旅行で来るとすばらしい場所に思えるけれど、交通が不便な離島で暮らしていくのは並大抵のことではないのでしょう。要は、「時代は変わった」ということなのでしょう。

    ふと、思いました。

    風がビュービュー吹き付ける絶海の島に、ポツンと建つ教会。

    もしかするとあれは、たんなる潜伏キリシタンの遺跡ではないのではないか?  

    じつはキリスト教という宗教を超えた、もっと大きな存在なのではないか?

    こんなにも海を隔てた孤島に、すっくと立つその姿は、なぜあれほど堂々として見えるのだろう?

    もしかすると、ぼくらに「何か」を伝えようとしているのではないだろうか?

    たとえば勤務先で、渾身の企画がどうしても通らない、なんてことがありますよね。

    あるいは、好きな人に、思いをどうしても伝えられないということがあったりします。

    結婚や離婚、子育てや家族の問題で、家にどうしても帰りたくないときもあるでしょう。

    パワハラ、セクハラ、いじめや嫌がらせはもちろんのこと、スメハラ、スピハラ、そしていまだ言語化されていないハラスメント的なことがジンセイにはいろいろとあります。

    野球なら、延長戦の12回表、無死満塁でリリーフに立ったピッチャーが3ボール2ストライクになってしまう、なんて大ピンチがありうるし、サッカーならアディショナルタイム残り1分でカウンター攻撃を受けて絶体絶命のピンチ……なんてときがあります。

    つまり、心が折れそうになる状況というのは、誰のジンセイにもやってくる。

    程度の軽重は異なれど、今のぼくたちの日常の中にも、耐えなきゃならない「潜伏キリシタンぽい状況」はありうる。

    そしてこの旧野首教会からは、そうした状況に陥ったすべての人々への、無言のエールが聞こえてくるような気がします。存在そのものが、この光景そのものが、

    「そんなの全然大丈夫!」

    というメッセージを放っているようにも思うのです。

    嫌なことがあるなら、ひとまず逃げていいんだよ! でも、あきらめるなよ~。未来を信じていれば、そのうちきっといいことあるからな~! 

    教会のことを思い出すたびに、どこからかそんな声が聞こえてくるような気がします。

    なぜといえば、この教会こそ、あきらめなかった人たちが勝利した、まぎれもない証拠だからです。ここで110年前、実際に「奇跡」が起きたということの……。

    だから、お上の規制がなんであろうと、上司の指示がどうであろうと、家族の会話が皆無の状況に陥ってしまったとしても、のらりくらり逃げながら、あきらめないでいこうよ、と。そのうち潮目が変わる瞬間が来るのだから。この広い世の中にはきっとわかってくれる人がいるのだから。

    人々は島を離れました。だけど、大切なものは、今もここに、ちゃんと残っているのだと思います。

    目が覚めると、すぐそばでシカが、のそりのそりと草を食んでいました。

    日焼けした頬を、風がくすぐって気持ちがいい。船が出るまで2時間の空白があり、仕方なく昼寝をしたつもりだったけど、ときには、こういうご褒美のような時間がやってくることがあるんだな。

    命がけで信仰を守り続けた潜伏キリシタンの人たちのおかげなのかもしれないし、ただ寝不足で頭のなかがポワーッとしちゃってるだけなのかもしれない。

    まあ、理由はなんだっていいのだけど、とにかくそのときの気分は最高で、もし、ルイ・アームストロングくらい歌がうまかったら、間違いなくこう口ずさんでいたと思います。

    「なんてすばらしいんだろう、この世界ってやつは!」

    【こちらも読んでね!】

    ★日本人はなぜコンクリートと蛍光灯を選んだのか? 古民家宿と活版印刷所のある「小値賀島」で考えた。

    【参考サイト】

    ■長崎県・世界遺産解説ページ「長崎と天草地方の潜伏キリシタン遺跡/野崎島の集落跡」

    http://kirishitan.jp/components/com008

    ■小値賀アイランドツーリズム「野崎島のこと」

    http://ojikajima.jp/category/nozakijima/nozaki

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