チベットやシベリアの冬季単独自転車走破、熱気球、登山など、さまざまなジャンルで冒険を続ける安東浩正さんが語る「冒険観」とは
探検家・関野吉晴さんが、時代に風穴を開けるような「現代の冒険者たち」に会いに行き、徹底的に話を訊き、現代における冒険の存在意義を問い直す──BE-PAL12月号掲載の連載第17回目は、自転車、熱気球、登山、洞窟、砂漠などさまざまなジャンルの冒険に挑戦してきた安東浩正さんです。
冬のシベリア2万3000㎞を自転車で単独走破したことについて、「無謀だという人がいるかもしれませんが、自分では無謀なことをやったとはまったく思っていない」と語る安東さん。冒険の定義、挑戦と無謀の違いに関野さんが迫ります。その対談の一部をご紹介します。
関野吉晴/せきの・よしはる
1949年東京都生まれ。探検家、医師、武蔵野美術大学名誉教授(文化人類学)。一橋大学在学中に探検部を創設し、アマゾン川源流などでの長期滞在、「グレートジャーニー」、日本列島にやってきた人びとのルートを辿る「新グレートジャーニー」などの探検を行なう。
安東浩正/あんどう・ひろまさ
1970年広島県生まれ。1995年の冬季東チベット高原単独自転車横断以降、登山や熱気球などさまざまなジャンルで冒険を続ける。2003年、第8回植村直己冒険賞受賞。海外登山・辺境旅行のガイドを生業とする。著書に、『チベットの白き道』(山と溪谷社)。
「冒険とは、できるかどうかわからないことへの挑戦」
関野 冒険には大なり小なり無謀性があると私は考えます。たとえば2000mの未踏の垂壁を登ろうとするとき、そこに危険がないわけがありません。どんなに技術が優れていてもです。
安東 もちろん、自然が相手ですから予測できないリスクはあります。リスクをゼロにはできません。でも、冒険家は無謀だと判断したらやらないのではないでしょうか。少なくとも僕はやりません。僕の冬季シベリア自転車横断もある人からすれば無謀に見えるかもしれませんが、自分ではそうは思っていない。僕のやってきたのは無謀ではなく挑戦です。
関野 安東さんは冒険をどう定義しますか? また、無謀と挑戦をどこで分けているのですか?
安東 できるとわかっていることをやるのは冒険ではないでしょう。できるかどうかわからないことへの挑戦――それが僕の冒険の定義です。冒険家が挑む冒険は、誰もやったことのない行為という条件がさらに加わると思います。また、できるかどうかわからないという点については、それぞれの人の力量、知識、経験によって違ってきます。たとえばキリマンジャロ登山。ガイドとして何十回も登っている僕にとっては朝飯前の山です。でも、ガイドした人の中で登頂できたのは7割。このように登れるか登れないかわからない人がキリマンジャロに挑戦するのは冒険といえると思います。つまり同じ山でも冒険になる人もいるし、ならない人もいる。同様に、冒険において挑戦と無謀の境界線をどこに引くかは人によって違うと思います。許容できるリスク、生きて帰れるラインは、人によって異なるからです。
この続きは、発売中のBE-PAL12月号に掲載!
公式YouTubeで対談の一部を配信中!
以下の動画で、誌面に掲載しきれなかったこぼれ話をお楽しみください。