2015年4月25日にネパールで起こった大地震。周辺国も含めて9000人以上の人々が亡くなり、負傷者は約2万人、被災した人は約800万人にも上りました。写真家の石川梵さんは、地震で壊滅的な被害を受けた山間部の村、ラプラックを取材したことをきっかけに、この村を題材にしたドキュメンタリー映画『世界でいちばん美しい村』を制作しました。この映画を通じて、石川さんは何を伝えたかったのでしょうか。じっくりとお話を伺いました。
——ネパールでの大地震のあと、石川さんは、どのような経緯で現地を取材することになったのですか?
石川梵さん(以下石川):地震が起こった日にその情報を聞いたあと、現地の被害の様子を伝える映像を見たのは、2日後の朝だったかな。これは大変なことになっている、まさしくネパールにおける東日本大震災と呼べるほどの災害だ、と。その日の夜にはネパールに向けて出発していました。
——その日の夜に! すごいですね……。ネパールを過去に訪れた経験は?
石川:チベット文化圏を取材していた1990年代の初め頃に、3回ほど行ったことがありました。ネパールの人たちのメンタリティは、日本人に近い部分がありますよね。親しみやすくて、仏教徒もたくさんいるし。東日本大震災の時には、ネパールから義援金や物資が届けられて、多くの人々が日本の被災者のために祈ってくれたという話も聞いていました。だから、ネパールの地震の映像を見たときに、カーッと熱くなってしまって。理由はそれだけではないんですが、自分でもよくわからないまま、とにかく行くんだ、僕にしかできないことがあるんじゃないか、と思って。
——石川さんは東日本大震災の時も、発生直後からずっと被災地を取材されていましたよね(震災の被災地を撮影した写真集『The Days After 東日本大震災の記憶』で、石川さんは2012年に日本写真家協会作家賞を受賞)。
石川:東日本大震災のときも、「僕にしかできないことがあるんじゃないか」という衝動にかられながら、2カ月間くらい、被災地の取材で動きっぱなしだったんです。今回のネパールでも、同じような衝動に突き動かされていましたね。
——震災直後のネパールは、どんな様子でしたか?
石川:首都のカトマンズでは、世界遺産に指定されていた建物が壊れるなどしていましたが、新しめの建物は壁にヒビが入っているくらい。街の人々は余震で建物が崩れるのを恐れて外にテントを張っていましたけど、そこまでひどい状況ではありませんでした。最初は日本の国際救助隊と行動をともにしようと考えたんですが、彼らの救助作業用の重機が届くのが遅れていて。それで空港に行って、抽選で割り当てられた救援機に同乗させてもらったんですが、空から見ると、山岳部の被害がひどいんです。中でも、震源地に近いあたりは相当大変らしい。でも、どこのメディアも、そこまで取材に行っていない。すごく心配だったので、どうにかして行きたいと思って、現地に精通している人間を探したんです。ゴルカ地方なので、ゴルカの言葉を話せる人を。すると、ラプラックという村の出身の人が、カトマンズから村に戻ろうとしているのを知って。村まで同行させてもらうことにしました。
——村までの道中はどうでしたか?
石川:余震はまだ続いてましたし、あちこちでがけ崩れが起こっていて、いつどこで新たに崩れるかもわからないような状況でした。ふもとにある別の村までジープで行って、そこから歩いてラプラックに向かいました。途中、ラプラックの手前にバルパックという村があって、そこも崩壊していたんですけど、そんな中で、一日遅れで仏陀の生誕祭をやっていたんです。捧げ物の輪とかを作っていて。こんな状況でもお祈りをするのか、と。実は、この仏陀の生誕祭というのが、後でキーワードの一つになるんですけど。
——地震の後のラプラックは、人が住めないような状態だったんですか?
石川:建物がつぶれて、完全に崩壊している状態でした。余震による危険もあるので、村の人たちはさらに上の高台にある、グプシ・パカという場所に避難キャンプを作って逃れていました。ジープを降りてから、歩いて4時間。ほぼ垂直の、永遠に階段を上がっていくような道のりで。僕が到着したのは地震発生から10日後のことで、そんなに混乱した状況ではなかったです。食糧が届かないとか、これからどうなるんだろうという不安とか、そういう問題はありましたけど。幸いにして、彼らは普段から家畜を飼っているので、それ用に使うビニールシートを持っていたんです。地面に杭を打ってシートをかぶせて、雨だけはしのげる状況でした。でもね、妙にみんな明るいんですよ。子供たちはその辺でバレーボールとかやって、笑ったりしてて。何でこんなに明るいんだろう、と不思議に思いました。