野田さんと出会ったのは僕が33歳の時だった。当時、僕は広告代理店のしがないサラリーマンだった。
2022年3月、84歳で旅立ったカヌーイスト、野田知佑。『日本の川を旅する』『北極海へ』をはじめとする数々の名紀行作品を著し、「すぐおいしい、すごくおいしい」というコピーで知られるチキンラーメンのCMにカヌー犬ガクとともに登場、環境問題にも一石を通じた野田さんが遺したものは何だったのか。ともに旅をし、川で遊び、ときに酒を酌み交わして語り合った仲間たちが、野田さんから受け継いだ大切なものについてリレー形式で綴る連載。第2回は「サラリーマン転覆隊」の隊長・本田亮さんです。(第1回はこちら)
野田さんは当時、アヒルを飼っていた
『日本の川を旅する』という野田さんの著書を読み「そうか! 日本の川はこんなにも自由に旅してもいいのか!」と目から鱗の驚きがあった。
そして、どうしても野田さんに会いたくなり、競合広告代理店のラジオCMの取材だったにもかかわらず身分を隠して潜り込んだのだ。それは野田さんの住む亀山湖での取材だった。
女性のインタビューアーはアウトドアに疎く話が盛り上がらず、仕方なく僕が途中から間に入って話し相手になった。僕には聞きたいことが山ほどあったのでインタビューを盛り上げるのは簡単だった。
野田さんは当時、愛犬ガクではなくアヒルを飼っていた。アヒルはいつも野田さんの後ろを付いて回り、ご主人様が魚を釣るのを待っていた。
魚が釣れると野田さんが相棒のアヒルにひょいっと放り投げる。アヒルが嬉しそうに尻尾を振ってパクッとのみ込む。その様がなんとも微笑ましかった。
焚き火を囲みながら語ったユーコン川の話に僕は心奪われ、すぐに仲間を集めて転覆隊を結成した。
そして、勢いそのままに日本中の川へと遠征していった。球磨川、四万十川、長良川……名だたる川に次々と突入して轟沈。そして、翌年にはユーコン川に遠征していた。
「椎名の名前も入れておけ! 椎名に言っておく!」
そんなサラリーマンのハチャメチャ休暇に興味を持ったフレーベル館の編集者が声を掛けてくれ、初めてのエッセイ集『サラリーマン転覆隊が行く!』(上下巻)を上梓したのは僕が41歳の時だ。
野田さんは殊の外喜んでくれた。
それならば「帯に野田知佑氏推薦と入れさせてもらえませんか?」と恐る恐る尋ねてみると「入れろ入れろ! だけど俺より椎名のほうが有名だ。椎名の名前も入れておけ! 椎名に言っておく!」などと言う。
椎名とは椎名誠さんのことだ。当時、僕の家と椎名さんの家は2㎞ほどしか離れていなかったので、僕は慌てて椎名さんにお礼を言いに行くと、「そんな話聞いてない」と言われて愕然とした。
汗をかきながら事の次第を説明してなんとか了承を得る。「野田知佑、椎名誠大絶賛!!」というとても贅沢な帯が入った僕の著書はお陰様でよく売れた。
真冬の鹿児島へ野田さんを訪ねたら…
野田さんはいつも一本道だ。浮世のしがらみなどにはまったく関係なく思いのままに行動する。
川を堰き止め日本の自然をいたぶろうという者や、川を独占しようとする者には鉄拳制裁。野田さんは日本の川の守り神だったように思う。
そして、自然が好きなヤンチャな若者を心から愛した。僕らのことを弟分のように可愛がってくれたのも、理屈をこねず川と取っ組み合いで遊ぶ姿が痛快だと感じたからだろう。
来るモノは拒まず。野田さんはいつも自宅に僕らを快く受け入れてくれた。
「野田さん、来週の土曜日遊びに行っていいですか?」
「おぅ、いいぞ。遊びに来い」と即OK。
そして、その後「俺は四万十川に行って不在だからな、玄関開けとくから勝手に入って適当に寝ればいい。酒も飲んでいいぞ」と言われた時には驚いた。
僕らはその言葉を真に受けて野田さん秘蔵の一升瓶を空けてしまったこともある。
野田さんに誘われるまま真冬に鹿児島に出掛けた時のことは忘れない。
「鹿児島はあったかいぞぉ、冬でも泳げるぞーっ」という言葉を信じて、スキンダイビングセットを持って出掛けていったのに、雪が降ったじゃないですか、野田さん!
寒風が吹いて凍えるように寒くて海は大荒れ。沈を繰り返しながらやっとの思いでたどり着いた無人島。
岩陰で強風を避けながら焚き火をして鍋をつついた。野田さんがハーモニカで何曲も日本の名曲を吹いてくれた。
かなり過酷なツアーだったけれど、考えてみるとあんなに贅沢な体験はなかったと思う。なにしろ野田さんのハーモニカ演奏を最前列で寝っ転がって焼酎飲みながら聞いていたのだから。
結局、島から脱出できずに最後は救助船を呼ぶはめになった。あれは遭難だったんじゃないでしょうか? 野田さん。
鹿児島での凍えるような体験。だけどその記憶はいつまでも心の中で熱いままだ。
男は黙って焼酎お代わり……そういう人だった
野田さんは不器用だけど、人間味たっぷりだった。
僕の妻が重い病気にかかり1年近く入院した時は、新大久保の病院にフラッとやって来た。
入院は退屈だろうと大量の文庫本を差し入れたところがさすが作家だなと思った。
ベッドサイドに椅子を出して腰掛けても多くを語らずすぐに立ち去った。
いかにも野田さんらしい振る舞い方だ。
野田さんに甘い言葉は似合わない。
男は黙って行動で示す。
男は黙って焼酎お代わり……
そういう人だった。
野田さんは野生の狼、転覆隊は町の愛犬
そして、野田さんは旅立つ若者が好きだった。
外国へ旅立つ者、未知に挑戦しようという者……冒険心のある若者と出会うと、お財布事情関係なく応援してしまう。
一方で普通の暮らしや常識からはかけ離れている部分もあった。
それ故トラブルや喧嘩の話も多い。
だけどそれは仕方がないのだ。
何故なら野田知佑は狼だからだ。野生の生き物だからだ。
町や里にいる時は仮の姿。白夜の荒野で風に吹かれてながら彷徨っている時こそ野田さん本来の姿。
転覆隊はそんな野田さんの姿に憧れて真似をした町の愛犬みたいなものだ。
「狼カッコいいじゃないか。俺たちもやってみようぜ!」と話し合い、夜中に飼い主の目を盗んで鎖を外し荒野へ出掛けていく。
「今回はヤバかったぁ、死ぬかと思ったよ」などと汗しながら、朝方には犬小屋に戻ってご主人様からの餌を待つ。
それがサラリーマンカヌーイストだ。
野田さんはまるで違う。ベースが町の中ではなくグリズリーのいる荒野なのだ。
だから誰もが野田知佑になりたくてもなれなかったのだ。
日本の川の素晴らしさを語り継いでいく
野田さんの瞳の中にはいつもユーコン川が滔々と流れていた。
一緒に酒を飲んでいる時「この夏、ユーコンを下ろう。転覆隊も一緒に行こう!」などと度々誘われた。
70歳を越えた辺りから野田さんは死についての話をよくするようになった。
「ナイル川を下ろう、多分死ぬだろうけど……」「熊に食われて死ぬというのも男として悪い死に方じゃない」などなど。
狼としての去り際を考えていたのだろう。
晩年、足腰が弱くなりカヌーにも乗れず川にも潜れなくなった時、野田さんはどんな気持ちだったのだろう。
できればもう一度ユーコン川を下らせてあげたかった。そして、そのままカヌーに乗せて流してあげたかった。
「とんでもない!」と言う人もいるだろう。
だけどきっと野田さんは「男として悪い死に方じゃないな」と言って、低い声で「フォフォフォッ」と笑ったのじゃないかと僕は思うのだ。
狼は荒野に骨をうずめる。誰にも見られずにね。
今頃、野田さんは天国の天の川辺りにいるのだろうか。肉体を離れた魂は自由に動くことができる。
天の川はユーコン川よりも遥かに大きいから漕ぎがいがあるよ、野田さん。
畔で待っている相棒ガクを乗せて思う存分星の大河を漂ってほしい。
僕らは川原で焚き火をする時、いつもあなたを話題にするだろう。
野田さんの魂は墓石の中にはいない。
日本中の川の上を漂っているに違いない。
盃を星空に高く掲げて「野田さん! 今日の俺たちの沈、どうだった?」と尋ねるよ。星空から「甘い甘い、もっと轟沈しろ!」と笑ってください。
僕らは野田さんが残した言葉と行動を思い出しながら、弟分として恥ずかしくない遊び方をしていきます。
川を愛し川に挑戦し、日本の川の素晴らしさをたくさんの人に伝え続けていきます。
狼の爪の垢を煎じながら、愛犬なりに凜々しく。
野田知佑よ、永遠に!
(BE-PAL 2022年 8月号 より)