東京23区内、特に山手線の内側はビル街や飲食店街、住宅街ばかり。そう思っている人が多いかもしれません。でも、目を凝らせば東京都心にも「山」はあります。そんな東京の山の世界を、日本で唯一のプロハイカーである斉藤正史さんが案内します。第19座目は、東京都文京区に「かつて存在した山」をめぐります。
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第19座目「久世山」
今回の登山口(最寄り駅)は有楽町線護国寺駅、出入口3からのスタートです。道路を挟んで、護国寺と反対側の出口になります。護国寺も見どころが多いのですが、目的の山があるのでスルー。 大通りをそのまま通ってもいいのですが、今回も引き込まれるようにやはり裏通りに吸い込まれ ていきます。
ゴミ収集所そばの案内板に記された情報
出た、いきなり気になるお店。やっぱり裏通りはあります。裏通りに入っていきなり現れたのが「音羽小料理みね」です。気になる!でも、真昼間ということもあり、のれんは出ていませんでした。 ちょっと店の周りをうろうろ。不審者だと思われるといけないので、さっさと先に進みます。
さらに、細い路地を進んでいきます。ん、なんだこのお屋敷は?!先に進むと路地が狭くなってきて、左側に小高い丘が続いているのがわかります。その丘の上に向かうように、時おり急な坂や階段が現れます。路地を抜け、再び大通りに出て進むと、なんと博物館のような立派な入り口があるではないですか。
入り口には、鳩山会館と書いてあります。 そう、ここは、内閣総理大臣(第52~54代)を務めた鳩山一郎氏が1924年に建 てた私邸だったのです。一郎の父で、勝山藩出身の鳩山和夫が、この地に居を構えたのは1891年。設計は、大正・昭和初期を代表する建築家の岡田信一郎氏。当時としては珍しかった鉄筋 コンクリートが使われた建物です。文京区音羽にあったことから音羽御殿の愛称で親しまれていました。一郎没後は修復を加え、現在は記念館として一般に公開されています。往時の応接室や居間、鳩山家歴代の愛用品などを見学することが出来ます。
鳩山会館の前の通りを進み、再び路地に入ると、今回の目的の山にも関係のある今宮神社が見えてきました。この神社は、1697年に江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉の母・桂昌院の発願により、京都の今宮神社より分霊されて創建。元々は護国寺の寺内にあったのですが、明治の神仏分離により、現在の場所に移転しました。社宝として、鳩山家より奉納された魔除飾面があるそうです。
今宮神社の脇の坂道に出ると、ゴミ収集所の横に文京区教育委員会の案内板を発見。そこには、「久世山」が存在した事実が書かれていました。鳩山家の前に は、下総関宿藩主である久世氏の屋敷があり、この高台一帯が久世山と呼ばれていたそうです。
そう、 久世山が今回の目的地なのです。ただ、現在は住宅地で、「山」と呼ばれた時代の痕跡が周辺に見当たりません。そこで、さらに八幡坂を登りました。すると、坂の上部でまさかの文人の足跡を発見したのでした。
それは、石川啄木が初めて上京した際に下宿した跡地でした。この連載のFILE.16 右京山で言語学者である金田一京介の旧居跡を紹介しました。実は、金田一京介と啄木は同郷で、中学の先輩後輩だったそうです。しかも、啄木は金田一京介を頼って上京してきたというではないですか。 山を訪ね歩く中でこうした発見があるのも、近代文学の地・文京区ならではだと思いました。
その石川啄木ゆかりの地からさらに坂を登り、周辺で一番高いと思われる場所まで歩くと、鳩山会館の裏手の入り口でした。
この一帯が久世山と呼ばれたころ、どんな景色が広がっていたのでしょうか。いまは、建物が密集していて、往時の景色を想像することも難しくなっています。 でも、久世山の山頂に至るまでのわずかな時間でも、登り坂を上がりながら日本の近代史の様々な姿を感じることができたのでした。
次回は「文京区の有名な椿山荘」を予定しています。
なお、今回紹介したルートを登った様子は、動画でご覧いただけます。