FILE50は、西大久保の厄除け富士です。
第50座目「西大久保の厄除け富士」
東に富士があるのなら、西にも富士があるのではないか?と考えたわけではありませんでしたが、偶然近くに西大久保の魔除け富士がある事を知りました。
さて、もう一度新宿三丁目E1登山口から歩こうと考えたのですが、大部分が同じ道になることを考えると、それも芸がありません。地図を見て思いついたのが、JR新大久保駅登山口だったのです。
今回はJR新大久保駅登山口からのスタートです。
駅に降り立ち、真っ先に後悔しました。平日の日中なのに恐ろしい人・人・人です。しかも圧倒的に女性が多いのに驚きました。いつもより少し長めにINSTA360をセットして歩き始めました。
とにかく進まない
新大久保のメインストリートを歩くのですが、全然進みません。前の人がお店の前で物色すると、列は止まります。まるで富士登山のようです。?!そういえば富士塚登山でしたね。
あぁ登山口選びを失敗したなと後悔するもすでに時遅し。とにかく前へ進みました。これには新大久保の道路が関係していました。メインストリートの大久保通りは縦に道はあるのですが、大久保通りに平行した道が近くにありませんでした。
そんな混みようも交番を過ぎるころから解消され、人もまばらになり、大久保通りから1本道に入ると、大久保通りの喧騒が嘘のように静かに住宅街へと入っていくのでした。
しばらく歩くと、「小泉八雲記念公園」が見えてきました。ただの公園とは少し違って洋風のお庭のようなエリアもあります。
小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)
ギリシア生れ。父親はアイルランド出身のイギリス陸軍軍医で、イギリスとフランスで教育を受け、1869年に渡米。1890年「ハーパー」誌特派員として来日しました。来日後は、なんと松江中学教師に転じ、小泉セツさんと結婚。神戸に移り執筆を始めます。
1895年日本に帰化して、小泉八雲と改名しました。その後、東京帝国大学、早稲田大学の講師として英文学を教え、精力的に日本を紹介する書籍を精力的に執筆されました。
小泉八雲がその生涯を遂げたのがこの地だったそうです。新宿区立大久保小学校脇には、小泉八雲終焉の地の碑が立っていました。そのまま進むと、稲荷鬼王神社があるのですが、僕はローソン方向へ歩き、神社の裏手から入りました。
するとすぐ左に西尾大久保厄除け富士がありました。新旧のビルに囲まれ、神社だけ町の景色とは色が違って見えました。
稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)
稲荷鬼王神社は鬼王権現を祀る全国で唯一の神社だそうです。1832年大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となりました。 江戸時代から豆腐を備えれば、湿疹・腫れ物に特効があるとされたそうです。
分割された富士塚やその他にも
中には鬼の像や、町のポスターを飾ってあったりと、ちょっと変わった雰囲気です。大きな富士塚の参道を挟んだむかいにも、富士塚のように溶岩でできた富士塚に似たようなものがあったのが不思議でしたが、説明によると参道を挟んで左右二分化という珍しいかたちで残っている富士塚なんだそうです。
東大久保富士とさほど離れていない場所にある一風変わった富士塚、同じ富士塚でも色々とあるものですね。当時の人気ぶりが伺えます。
ちなみに・・・
神社裏手にに面した職安通りを早稲田方面に4分ほど歩いていくと、なんと島崎藤村の居跡があります。信州小諸で家族を作り、執筆生活を送っていた藤村は、1903年に執筆中の小説『破戒』を完成させるため、家族を連れて上京しました。困窮の生活に耐えながら執筆し、ついに書き上げた場所が西大久保だったそうです。
次回はFILE51-1いよいよ山手線内最高峰、箱根山前編です。