虫屋になって最初に追いかけたチョウ
さて、オオイチモンジです。
40歳を超えて、目覚めた昆虫採集。
そして7月。早めの夏休みに出かけたのは、北海道の某林道でした。
オオイチモンジという褐色に白い一文字模様が描かれた大型美麗蝶です。
当時の記録ノートを読むと、いかにその夏、私はオオイチモンジに翻弄されていたか、がわかります。
そしてまた、林道で出会う虫屋と呼ばれる人たちとの出会いを詳しく記しています。
虫の生態もさることながら、虫屋の生態もこれまた私にとっては新鮮な感動でした。
(自分もまた虫屋界のとば口に片足を突っ込んでいるのですが……)
軽トラでやってきた虫屋のおじさん
クルマを林道の路肩に置いて、オオイチモンジを探していると、林道の向こうから軽トラが埃をあげて突進して来て、目の前で急停車した。
ドアが勢い良く開いて、大きいネットを持ったおじさんが、飛び出してきた。そして私のすぐ脇で一心不乱に網を降り始めたのだ。
どうやらお目当てのチョウを追ってきたようだ。
おじさんが一息ついたところで、声を掛けてみた。
「こんにちは。蝶ですか」
「ええ」
おじさんはこちらをふりむかず、視線は今捕り逃したチョウの行方を追っている。
おじさんは、長袖シャツに帽子、長靴、そして手拭いという正装で、腰に「三角紙入れ」まで下げている。捕ったチョウは三角紙に納めるのだが、それを重ねて保管するケースが「三角紙入れ」というもので、ベルトに装着するようになっている。そして手にしたネットの汚れは長年の歴戦のあとを物語っていた。
「何を狙ってるんです?」
「ダチョウです」
おじさんはただそう言い残して、目は宙に浮かせたまま、運転席に乗り入れ、去っていった。ついにちらりともこちらを見なかった。
ダチョウとは駄蝶のことだろう。特に珍しくもないチョウという意味だろう。しかし私はその後、この言葉を聞いたことがないので、おじさんの造語なのかもしれない。
私もこの林道でのダチョウ採集は満喫していた。
図鑑でしか見たことのないチョウが優雅に舞っているのを見て、内省的になって、本当の幸せとは何かに思いを馳せた。
オオイチモンジだけは影すら見ていないが、やはり羽化には早すぎたのだろう。
今年はもうあきらめよう。
(追記)と、ここでまっすぐに帰ったら「いい夏休みがとれた!」でよかったのに……
飛行場への帰り道でもついつい林道へ
早めに林道を切り上げので、空港到着の時間までにだいぶ余裕があった。
そこでもうひと振りしようかと、空港近くの道中で、別の林道へ入ってみた。
このあたりも同じ山系なのだが、ほとんど低地に近い。渓流沿いの林道で、行き当たりは温泉施設があるようだ。しかし網を降ってみたが、珍しい虫の収穫はほとんどなし。
オオイチモンジ?
ここもあきらめて、また林道を戻ることにした。
と、シートに腰を下ろして前の道を見ると、大きな黒いチョウがアスファルトにいるのが見える。
心臓が高鳴る。ゆっくりとクルマで近づく。
チョウの影が徐々にはっきりとしてくる。
獣糞に大型のチョウが留まって吸汁している。
オオイチモンジではないか!
間違いない!
初めて見るオオイチモンジは帝王の風格で、悠揚迫らざる様子で獣糞にストローを突き立てている。
クルマをだいぶ手前で停め、静かに降り、そうっとチョウの背後から近づいて行った。
蝶の視力は、想像以上に良いのを私は知っている。蝶が体の向きを変えると、それにあわせてこちらも移動する。
ようやく網で捕れる距離に近づき、ふわりと静かにネットをおろす。
そしてついにネットに入れた。
驚き暴れるオオイチモンジ。こちらのアドレナリンも全開。
しかしさて、問題はここからだ。
今私は右手で竿の柄を持ち、左手でネット先端を摘んでいる。なぜならネットの下には新鮮で柔らかいうんちがある。
暴れるオオイチモンジの胸をどう押さえ、しかもネットも汚さない方法はないか、思案のしどころなのだ。
その時だ。向こうからトラックがやってきた。
心を落ち着かせようとしつつも、トラックのスピードはかなり速い。あわあわしたその瞬間、わずかにネットと地面に隙間ができた。
「あっ」
隙間から逃げ出すチョウ。
遠くの林まで一気に飛んでいく。
トラックが容赦なく、私の鼻先を通り抜ける。
悔しくて悔しくて涙が出そうになる。
頭の中を舞うオオイチモンジ
夏休みから復帰した私は、机で仕事をしていても家族と食事をしていても、頭の中をオオイチモンジがずっと飛び回っていました。
影も形も見ないままなら、私には縁のないチョウだということで済んだ。しかしネットインまでして捕り逃したのがいけない。悔しさが凝り固まってしまった。
そんな思いをしていた10日後、なんと私は幸運にも、また北海道に行く出張ができたのでした(強引に作ったわけではない、念の為)。