FILE.99は、足立区の伊興町富士です。
第99座目「伊興富士」
今回の登山口は、東武伊勢崎線竹ノ塚駅です
今回の登山口(最寄り駅)は、東武伊勢崎線竹ノ塚駅です。学生のころに1度来たような気もしますし、来てないような気もします。駅に降り立ってみても、全く記憶が蘇りません。それもそのはず(?)、駅周辺は最近再開発が進められているようです。
早速西口から、北西方向にある目的地「伊興(いこう)氷川神社」を目指して歩き始めました。
寺町ルートを抜け、遺跡公園へ
竹ノ塚西口駅前商店街を通って、真っすぐ進んでいきます。この周辺も再開発の工事中のようです。道なりに進んでいくと駐輪場と前沼公園が見えてきました。竹ノ塚もまた自転車に乗る人が多い様子です。あちらこちらに駐輪場がありました。
尾竹橋通り方向に進むと、質屋さんに遭遇しました。最近は都内でもあまりありませんし、僕が暮らす山形では見かけた記憶すらありません。質屋という存在は過去のものになりつつあるのでしょうか。
尾竹橋通りを北東方向に進んでいくと、何やら気になるお寺がありました。
南昌山東岳寺
1633年(寛永10年)に下野国(栃木県)大中寺の門解蘆關和尚により、浅草新寺町(現・台東区松が谷一丁目)に創建されました。その後、戦災にあい、1961年(昭和36年)に現在地へ移転したそうです。
東岳寺の山門を入って左手に「東海道五十三次」で有名な浮世絵師・初代歌川広重の墓と記念碑があります。墓石は関東大震災と戦災のため一度破壊されましたが、1958年(昭和33年)、広重百回忌にあわせて再建されたそうです。
歌川 広重
江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも名乗りました。江戸の火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったそうです。
風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えました。ヨーロッパでもベロ藍、紺色がありましたが、油絵だとくすむため、版画の鮮やかな藍色は、「ジャパンブルー」とも「ヒロシゲブルー」とも呼ばれたそうです。
僕は安藤広重だと思い込んでいたのですが、調べると現在は歌川広重となっているようです。昭和52年ごろまでの教科書では安藤広重で、昭和55年ごろには安藤(歌川)広重、昭和57年ごろからは歌川(安藤)広重、平成6年以降は歌川広重として表記されているそうです。
一説では、安藤は苗字で、広重は号、つまり「呼び名」。そうなると安藤広重は名前と呼び名が混在してしまいます。実は、本人も安藤広重と名乗ったことがないそうですよ。真実はいかに?
尾竹橋通りをさらに進んでいきます。幹線道路のような広い道で、特に目立ったものはありません。徐々に不安が増してきます。駅から離れると、特に書くことのない地獄の住宅街がやってきます。あーヤバイ、あーヤバイと思いながらすでに予定する行程の2/3が過ぎてしまったのでした。
しばらく歩くと伊興遺跡公園の案内板が出てきました。そのまま路地へと足を進めると住宅街…。やはり書けそうネタがないと、ため息が出たのでした。
伊興寺町散策路
路地を少し進むと、左に専念寺、右に竹ノ塚正楽寺。竹ノ塚霊園、正安寺、東陽寺と続きます。更に易行院、常福寺、蓮念寺と、なんと短い通りに8つもお寺がありました。まだまだ周辺にはお寺があるようです。
なぜこのエリアにお寺が多いのかひもとくと、関東大震災後、都心や各地よから10以上の寺院が伊興に移転してきたそうです。13の寺院(長安寺・善久寺・浄光寺・法受寺・栄寿院・正楽寺・専念寺・正安寺・東陽寺・本行寺・常福寺・易行院・蓮念寺)は、東伊興四丁目の地域に移転したそうで、そのまま寺町となりました。そんなことから足立区はこの界隈を伊興寺町散策路とし、伊興本町二丁目にある伊興最古のお寺、応現寺を含めてお参りできるようになっているそうです。
思いがけず巡り合ったお寺三昧のルートを進んでいくと、今度は伊興遺跡公園が見えてきました。
伊興遺跡公園
伊興遺跡公園は1993年(平成5年)に開園。公園となった場所は、もともと伊興氷川神社に近く、伊興遺跡でも中心エリアとして考えられていたそうです。発掘調査で多量の出土品があり、足立区でこの土地を買い上げ保存区域として保護されることになりました。その後、遺跡公園として活用することになったそうです。
伊興遺跡公園には、この連載でもたびたび登場する竪穴式住居を復元した展示物もあります。公園を抜け、道路を挟んで向かい側に、今回の目的地である伊興氷川神社がありました。
目的地の富士塚の様子は…?
伊興氷川神社
およそ6000年前、奥東京湾の海中にあった足立区が陸地化していく中で、この付近が最も早く陸地となったそうです。大宮台地あたりからの移住者が、武蔵国一の宮である大宮(埼玉県さいたま市)の氷川社から分霊を勧請(かんじょう)したものと考えられており、足立区内最古の氷川社なんだそうです。
この周辺は渕(水を深くたたえているところ)が入りくんでいたところから「渕の宮」と呼ばれ、区内一帯が渕江郷や渕江領などと呼ばれるようになりました。江戸時代に各村々で鎮守が祀られるようになると、伊興氷川神社は、伊興村・保木間村・竹の塚村の3か村の鎮守となりました。1872年(明治5年)伊興一村の村社となったそうです。
伊興富士(浅間神社)
伊興氷川神社に入り、本殿までの道のりをキョロキョロしながら進んでいきます。本殿まで来て折り返し、さらに歩き回ります。すると本殿手前の参道脇に浅間神社がありました。1mほどの台座の上に本殿がありました。その奥には枯れた保存樹が保存されていました。
周辺を探しましたが、富士塚を見つけることは出来ませんでした。ただし、台座の周りに富士塚でよく見かけるボク石(溶岩)が少し落ちていました。台座の大きさから考えると、前回の西新井富士と同じく、以前は違った形で存在していたのかもしれません。
富士塚そのものがなくなっているのは残念ですが、ボク石、そして浅間神社は今も残されています。そうした痕跡から、かつて存在した山を感じることができます。これはこれで東京の山めぐりの一つだと納得したのでした。
伊興氷川神社や浅間神社は、とてもきれいに手入れがされていました。それだけ地域の人たちに大切されているのでしょう。地域の人たちにとって身近で大事な場所として神社があり、だからこそ創建時からの歴史なども伝承されているのかもしれません。今回もいろいろ発見があり、良い山行となりました。
次回は、この連載の100回目!足立区の保木間富士を訪ねます。