FILE.101は、足立区の花又富士です。
第101座目「花又富士」
今回の登山口は、東武伊勢崎線谷塚駅です
今回の登山口(最寄り駅)は、東武伊勢崎線谷塚駅東口です。東武伊勢崎線に馴染みのある人はお気づきかもしれませんが、谷塚駅は埼玉県にあります。この連載は「TOKYO山頂ガイド」じゃないの?と思った読者の皆さん、安心してください。目的地の富士塚は東京都内ですから。
東京都足立区にある竹ノ塚駅の隣の駅が、埼玉県草加市にある谷塚駅です。そして、地図で見ると、明らかに今回の目的地である花又富士(花畑浅間神社)は谷塚駅の方が近かったのです。ということで、登山口である谷塚駅東口を出発しました。
目的地より先に出合ってしまった立派な富士塚
谷塚駅前のロータリーには入らず線路沿いに進み、商店の多い道を進んでいきます。真っすぐ進むと正面に現れたのが、瀬崎浅間神社でした。目的地も浅間神社だけど、まだここは埼玉県内だから違うよなと思いつつ、ひょっとして富士塚があるかも…?と寄り道してみます。遠目からも大きな神社だとわかるのですが、入り口を抜けて本殿に近づくとその大きさに「おお!」と声が漏れました。
瀬崎浅間神社
創建は明らかではありませんが、古くは瀬崎村の中央部に元の浅間社が鎮座していたそうです。ところが後に、別当寺となる新義真言宗宝光山安楽院善福寺が1627年(寛永四年)に開山され、寺の守護として元社から新たに現在の地に勧請され、この地域の代表的な神社に発展してきたそうです。
社殿は、1756年(宝暦六年)と1842年(天保十三年)に再建。1868年(明治元年)には神仏分離令により独立し、瀬崎村の村社に格付されたそうです。
瀬崎の富士
瀬崎の冨士行(講)は、富士山を中心とする山岳信仰が基盤の庶民の宗教です。富士講の開祖で長崎出身の角行東覚(かくぎょうとうかく)と、中興で伊勢出身の食行身禄(じきぎょうみろく)の教えを基本とし、江戸駒込附近を元講、身禄派丸瀧講に属しています。
瀬崎の富士塚は1916年(大正5年)に竣工し、高さ約4メートル、横幅10.4メートル、奥行8.6メートルと大きなものです。現在、草加市には江戸時代に組織された2つの富士講が存在しますが、そのうちの1つがこの瀬崎の冨士行(講)です。ちなみに、富士山を信仰する人々で組織された富士講は、各地で独自な展開を見せ、草加市域では旧瀬崎村で「冨士行(ふじこう)」と呼ぶそうです。
この瀬崎の冨士行ですが、令和に入っても活動されている様子です。富士塚のそばに令和の富士山登山参拝記念の石碑があり、実際に現在も富士行(講)がしっかり活動していることを知ることが出来ました。
この連載史上でも屈指の素晴らしい富士塚、現在進行形の冨士講、そして立派な浅間神社を見せられると、ここで終わりでもいいかなと思ってしまうほどです。今回の目的地が、瀬崎浅間神社よりインパクトが下回るだろうことも予想されます。ここで終わりにしたいなという思いに駆られました。
しかし、ここは埼玉県です。きっと瀬崎に負けず劣らず素晴らしい富士塚が待っているはずと自分で自分に言い聞かせ、先に進む事にしました。
瀬崎浅間神社から住宅街を進んでいくと、記念体育館通りと並行する路地で、新鮮市場草加店と並びにある飲食店やダンススタジオのある通りに出ました。そこから記念体育館通りに出て、花畑大橋通りを南下すると、埼玉県と東京都の県境が見えてきました。地図を見ると毛長川(けながかわ)が境目です。
毛長川
埼玉県川口市東部で江川と前野宿川が合流してはじまるという毛長川。川口市内を南へ向かい、草加市と足立区の境を東へ流れ、足立区花畑地区で綾瀬川に合流する川です。かつては毛長堀、毛長落しと呼ばれていたとか。
やや変わった川の名前の由来は、次のエピソードによるものだそうです。その昔、新里(地区)に住んでいた女性が舎人(地区)に住む男性と結婚し、その後、男性の実家と折りが合わず新里の実家に帰る途中に沼(川)に身を投げました。 その後、長い髪の毛が見つかったことから、毛長川と呼ばれるようになったそうです。ちなみに、その髪の毛を新里の神社にまつり、現在の毛長神社となったといわれています。
花畑大橋を渡って毛長川沿いに歩いていくと、今回の目的地、可愛い名前の花畑浅間神社がありました。
目的地の花畑浅間神社と富士塚へ
花畑浅間神社
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は東征の帰路、この地に本陣をおき、多年にわたり夷賊(いぞく)に苦しんでいた人々を救済したと伝えられてます。人々は日本武尊に厚く感謝し、崩御(君主が亡くなったことを意味する最上級の尊敬表現)ののちに日本武尊をお祀りしたのが始まりだとされています。
また、武運長久・開運守護の神として信仰され、新羅三郎源義光が兄八幡太郎源義家の援軍として後三年の役に向かう途中、神社に戦勝の祈願をしました。後三年の役に勝利した義光は帰途、再び神社に参拝し、社殿を改築し「金の前立の兜」及び武具を奉献したと伝えられています。
花又富士
こちらの富士塚は、千住神社、保木間氷川神社の富士塚と同じく、伊藤参行(いとうさんぎょう)を講祖とする丸参講による築造だそうです。築造年代は不明ですが、石鳥居の年代や伝承より明治初年辺りではないかと言われています。なお、花畑浅間神社は社殿を持たず、富士塚の頂上に祀る浅間社をそのまま社名とし「野浅間」といわれているそうです。
この周辺は古墳が多く、この富士塚も古墳の上に作られたものではないかと言われていたそうです。しかし、調査の結果、何も出土されなかったとか。ちなみに、現在この地区は花畑という地名ですが、江戸時代には花又村と呼ばれていたそうです。だから、富士塚も花畑富士ではなく、花又富士なんですね。「はなばたけ」と「はなまた」、なんとなく音が近い感じがします。
次回は足立区の芝山です。