FILE.119は、板橋区の茂呂遺跡です。
第119座目「茂呂遺跡」
今回の登山口は、東京メトロ氷川台駅です
今回の登山口(=最寄り駅)は、東京メトロ氷川台駅1番出口。事前に軽く調べた限りでは、目的地までの距離が短く、山行の道中は住宅街っぽい感じです。つまり、あまり書くことが見つからないかもしれない…という不安を抱えながら、とりあえず出発することにしました。
各種大規模工事を横目に目的地の遺跡へ
氷川台駅1番出口登山口を出発すると、大規模な工事が行われていました。何だろうと思って調べてみると、東京都で行なう「放射 36 号線等沿道周辺地区まちづくり構想」として、練馬区では、羽沢・桜台・氷川台・平和台・早宮地区で大規模な工事が行なわれているようです。
放射 36 号線等は、東京都が平成 23 年度から整備を進めている計画で、練馬区北部と都心を結ぶ都市の幹線道路として、道路交通の円滑化や利便性の向上をめざしたものだとか。車道の両側には、歩道・植樹帯などで構成される「環境施設帯」も整備され、沿道環境の保全に配慮した道路だそうです。
…なるほどと納得し、ひとまず石神井川沿いの道を目指して歩いていきます。氷川台駅から今回の目的地である茂呂山遺跡までの川沿いの道には、やたら橋がかかっていました。宮宿橋、仲羽橋、羽根沢橋、羽木橋、開進橋、湿化味(しっけみ)橋と、約150m間隔で6つも橋がかかっています。
湿化味橋なんて変わった名前の橋には何かあるはずと思ってたのですが…珍しい名前という以外は特に何もない様子でした。ちなみに、湿化味とは低湿地を指す旧地名だそうです。
開進橋の対岸に公園が見えてきます。ミモザ広場と呼ばれるそうで、城北中央公園の一角だそうです。ここから先に進むと、都民の森や野球場、陸上競技場などある城北中央公園の中に入っていきます。
見どころの多い城北中央公園ですが、中には栗原遺跡もありました。
栗原遺跡は、旧石器時代から平安時代までの遺物や遺構が発見された複合遺跡です。栗原遺跡は、1955(昭和30年)年に立教学院総合運動場(現・城北中央公園)を造成する際に発掘されました。遺跡名は、同地帯の旧小字(大字の次の住所)である「栗原」からとったそうです。なお、園内に展示されている竪穴建物は1956(昭和31年)年に復元されたものだそうです。
対岸には、工事中の場所がありました。石神井川では、1958年の狩野川台風、2010年の集中豪雨など、過去に多くの浸水被害が発生しています。これらを踏まえ、東京都では全体貯水量約25万m3の調節池を城北中央公園の地下に整備し、1時間当たり50mmを超える降雨にも対応可能な環境整備を進めているということです。
そこからさらに川沿いを進んでいくと、栗原橋が見えてきます。栗原橋を渡った先には坂があり、その途中に今回の目的地の茂呂遺跡がありました。
縄文時代よりも古い貴重な遺跡
1951年(昭和26年)、板橋区のオセド山と呼ばれる丘を通りかかった当時中学生の瀧澤浩(たきざわ ひろし、後に考古学者になる)が、道路の切通しから黒曜石製の石器1点と礫群(れきぐん)を発見。
同年7月には、明治大学と武蔵野郷土館による共同発掘調査が行われ、群馬県の岩宿遺跡に続いて日本の旧石器時代に関する2例目の調査となり、縄文時代よりも古い旧石器時代が日本列島にも存在していたことが明らかになったのだそうです。それが、この茂呂遺跡なのです。
そうです、つまりここが今回の目的地です。茂呂遺跡がある石神井川の南岸は小高い丘になっていて、「茂呂山」や「オセド山」と呼ばれているそうです。オセド山は、パッと見た感じ、こんもりとした古墳にも見えます。周辺を歩いてみましたが、残念ながらオセド山=茂呂遺跡の周囲は柵が設置してあって立ち入ることことはできませんでした。
オセド山=茂呂遺跡は、何も知らなければそのまま通り過ぎてしまいそうな小高い丘に過ぎません。ただ、旧石器時代は30万年前にさかのぼるとももいわれます。そうした長大な歴史が詰まった丘だと知った上でオセド山を眺めると、とても厳かな存在に思えてきます。何やら歴史ロマンを感じる山行になったなと満足し、板橋区の住宅街を抜けて家路についたのでした。
次回は、板橋区の志村富士です。