
FILE.130は、世田谷区の根津山です。
第130座目「根津山」
今回の登山口は、小田急小田原線豪徳寺駅です

小田急小田原線豪徳寺駅登山口。
今回の登山口(最寄り駅)は、小田急小田原線豪徳寺駅です。今回、おそらく初めて小田急線に乗りました。
自分でも驚きましたが、すっぽりと小田急線が僕の人生から抜けていることが発覚したのです。じっくりと路線図を見たのですが、JRの方の小田原駅に降りた記憶しかありません。どんなに記憶をたどっても、よく知られた下北沢駅にすら降り立ったことがないのです(たぶん)。
ひょっとしたら、駅に降りていないだけで電車には乗ったことがあるのかもしれませんが、どんなに過去を回想しても思い出せません。こんなメジャーな路線に関して、これまで一度も接点がないなんて、考えると不思議です…。
招き猫に惑わされ(?)、脱線続き…
豪徳寺駅に降り立つと、招き猫の大きな石像が出迎えてくれました。猫好きの僕にとっては、なんともうれしい歓迎です。豪徳寺駅登山口を出発してからも、お店の店頭などで招き猫を見かけました。何かあるなと思い調べてみると、招き猫発祥の地の1つが豪徳寺なのでした。

改札を出てすぐの場所ににある大きな招き猫。
ただ、全国各地には招き猫発祥由来の地が他にも多くあるようです。
・自性院説:東京都新宿区の自性院が発祥の地とする説
・西方寺説:東京都豊島区の西方寺が発祥の地とする説
・伏見稲荷説:京都府京都市伏見区の伏見稲荷大社が発祥の地とする説
・今戸焼説:1852年項、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放しました。すると夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったそうで、今戸焼(今戸人形)の焼き物にして浅草神社の鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという説
では、豪徳寺はどんな招き猫発祥由来なのかというと、以下のような説が伝わっているそうです。
彦根藩第三代藩主である井伊直孝が、鷹狩りの帰りに弘徳院という小寺の前を通りかかりました。この寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていて、藩主一行は寺に立ち寄って休憩したそうです。すると雷雨となり、雨に降られずに済んだことを喜んだ直孝は、弘徳庵に多額の寄進をして井伊家の江戸の菩提寺と定め、弘徳庵は大寺院の豪徳寺となったそうです。
そして、和尚はこの猫が亡くなると墓を建てて弔い、その後、境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)がつくられるようになったといいます。なお、このほかにも豪徳寺説を裏付ける説は復数あるようです。

お茶屋さんには招き猫ののれんが!
個人的には、今戸焼説か豪徳寺説が有力な感じがします。が、今回の目的地は、豪徳寺方面とは真逆の方向です。
僕は物心がつく前、生まれてすぐから猫と一緒に寝ていたそうで、現在まで猫とずっと一緒に暮らしているほど無類の猫好きです(現在も2匹います)。それゆえに、今回の山行とは関係ない豪徳寺の招き猫発祥由来説に、大きく脱線してしまった次第です。招き猫の可愛さに免じて、ご勘弁ください。
豪徳寺駅前の商店街から1本路地に入ったとたん、山下駅?東急電鉄世田谷線?がありました。またも初耳です。
調べると、東急電鉄世田谷線は三軒茶屋駅と下高井戸駅を結ぶ軌道線で、都電荒川線とともに東京都内に残っている軌道線の一つだそうです。しかし、若林踏切(西太子堂5号踏切)を除いて全線が新設軌道となっているので、都電とは違って道路上を走行することはなく、併用軌道はほとんどありません。
などともっともらしく書きましたが、世田谷区や杉並区に不案内な僕には下高井戸がどこにあるかも分からず、世田谷線がどこを走っているのかも全く理解できていなかったりします。…今回は脱線続きで申し訳ありません。

東急電鉄世田谷線山下駅。
気を取り直して、山下駅の手前の路地に進みます。すると、その先に北沢川緑道がありました。この緑道を、豪徳寺駅の一つ隣の梅ヶ丘駅方向へと歩いていきます。北沢川緑道の路面は舗装されていますが、沿道には緑も多く、散歩する人や、ベンチではお弁当を食べている人も見かけました。いい散歩道ですね!

まっすぐ伸びる北沢川緑道。
緑道は車の心配もないのでキョロキョロしながら歩いていると、あっという間に、梅ヶ丘駅北口に近くの通りに出ました。その角を駅と逆方向に曲がります。すると、角にあるお店の店員さんと一瞬、目が合いました。僕が人見知りということもありますが、通りすがりに店内の人と目が合うのって何か恥ずかしくないですかね。
その角にあるお店、オシャレなカフェだとは思ったのですが、看板に「ミコ 珈琲と髪」とあります。ん?「珈琲」と「髪」がうまく結びつかず、すっと理解できません。ホームページを見ると、トップ画像は珈琲ですが、ワインや日本酒の写真もあります。その後でインスタグラムを見たらヘアカットの写真も多くアップされていて、ようやく美容室とカフェが一緒になったお店だと理解できました。なるほど…。

外界からも業態が分かりにくい「ミコ 珈琲と髪」。
その「ミコ 珈琲と髪」を曲がり、そのまま進むと今回の目的地根津山のある羽木公園に到着します。
目的地は、広い公園の山
羽木公園は、世田谷区の北沢地域で一番広い公園です。敷地には、軟式野球場、テニスコートなどのスポーツ施設のほか、プレーパーク、茶室日月庵、梅林などが点在しています。
梅林は、1967年(昭和42年)に植樹したのを始まりに、10回ほどの記念植樹により、現在では約650本・60品種の見事な梅林になっています。八重寒紅(やえかんこう)、八重野梅(やえやばい)、道知辺(みちしるべ)、白加賀(しろかが)、思いのままなど、約60品種が植えてあるそうです(そんなに品種があるのも驚きです)。2月上旬から3月上旬に行われる梅まつりは、世田谷の春の風物詩になっているとか。
その梅林の脇に、星辰堂(和室)と日月庵(茶室)茶室があります。どうせなら和風な建物と梅林が見たいと思い、公園北方面の入り口から入りました。

星辰堂(和室)と日月庵(茶室)の入り口。

星辰堂(和室)。
梅林と茶室を見学し、ぐるっと羽根木公園をまわったのですが、根津山に関する案内板などが見当たりません。藁にもすがる思いで、公園北側にあるサービスセンターに行きました。根津山について尋ねたのですが、分からない様子でした。
事前にスマホで調べた、根津山の由来のある案内板の写真を見せて「この場所に行きたいんです!」と伝えると、何やらいろいろ探してくださり、ようやく場所が特定できました。通り過ぎてしまった公園入口にあるらしいと判明したのです。
もともと羽根木公園一帯は山で、鍬や鎌をつくる六郎次という鍛冶屋が住んでいたので「六郎次山」と呼ばれていたそうです。大正時代末期には敷地の一部が根津財閥の所有となったことから「根津山」とも呼ばるようになりました。古くからの地元の人の中には、今でも羽木山公園を根津山や六郎次山と呼んでいるそうです。
では、公園の名前の「羽根木」はどこからきたのかというと、ここがかつて東京都荏原郡世田村大字羽根木の飛び地だったことが由来。そのまんま、ですね。

探し求めていた根津山の由来に関する案内板。

公園入口から見える梅林。こんもりしていて山っぽい雰囲気です。
今回の目的地は、公園として整備されていますが、十分に山の雰囲気を残していました。個人的には、財閥の名前が由来の根津山より、鍛冶職人にちなんだ六郎次山の方が親近感が持てるように思うのですが…。ともかく、これまで縁がなくて未踏でしたが、世田谷にも面白い山があって、うれしい限りです。
次回は、世田谷区の世田谷城跡です。
※今回紹介したルートを登った(歩いた)様子は、動画でもご覧いただけます。