
中山道でいちばんキツイ峠の歩き方

碓氷峠のふもとにある坂本宿。前方のこんもりした山が特徴的で、江戸時代後期の『木曽街道六十九次』にも描かれている。
差し障りのありそうなことに触れず、埼玉県からいきなり碓氷峠に来ました。
もし気になる方は、拙著『中山道のリアル』をご覧ください。
中山道を完歩したあと、「どこが一番きつかったですか」とよく訊かれますが、私は碓氷峠と即答します。
日本橋からここまでは、アスファルトの上を歩く旅でしたが、碓氷峠は本当の峠で、山道を登ることになります。油断していて、いきなり木刀で殴られたような衝撃ですよ、ほんと。

渓斎英泉が描いた『木曽街道六十九次』中の「坂本」。街道と山の位置は違うが、山容はそっくり。
碓氷峠は群馬県と長野県の県境で、その登り口は、国道18号沿いにあります。

峠の入り口。国道脇の休憩所の裏に、街道随一の難所への扉が。
国道といっても、碓氷バイパスがあるので、この国道はほとんど車の往来はありません。
ましてや徒歩で昔の峠道を越えようという人はまずいません。
ごろた石だらけの狭くてきつい急坂。
ジーンズが汗ばんだ脚に張り付き、思うように上がりません。

登り始めは薄暗い杉林の中のごろた石の急坂。
汗でシャツはすぐにぐっしょり、顔からも滴り落ち、手拭いが絞れるほどで役に立たず。
ひとつの山道をやっとの思いで登り切ると、すぐに次の急坂が目の前に現れる!
この繰り返しが延々と続くのが碓氷峠、バイパスの裏側です。
とても定年前のおじさんが思い立っての街道歩きではない!
まあ、登山の心構えを持っていればさほど驚きませんが、いかんせんこちらは手ぶらでやってきたものですから。
息を整えるのに止まって見回すと、杉木立に囲まれています。

柱状節理。薄い岩をケルンのように積み上げている。
道標を兼ねているのでしょう、道の脇に石仏・石碑が多く立っていて、なかでも馬頭観音が多い。それだけ交通の要衝であり、荷役馬の供養が必要だったのでしょう。

なんと馬頭観音の多い山道か。
それにしても馬はどうやってこの狭い急坂を上り下りしたのだろう。
考えたついでに皇女和宮(※)の輿を担いだ人足たちにも思いを馳せます。
まさかお姫さまがこの急坂を歩くこともないでしょうから、人足たちは、どれだけ慎重に輿を降ろしていったか思いやられます。
※和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう):仁孝天皇の皇女。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室となるため、文久元年(1861年)10月、京都から中山道経由で江戸に向かった。
中山道随一の絶景「覗」

覗。眼下に坂本宿をきれいに貫く旧中山道(国道18号線)が見える。
覗(のぞき)と呼ばれる高台へ出た!
覗という言葉通り、崖から麓の坂本宿が見下ろせます。さっき歩いて来た国道18号線(旧中山道)が、坂本宿をまっすぐ貫いています。
この風景は私は中山道随一の風景と思っています。
覗から先は比較的平坦な道でした。
杉木立から落葉樹の森へと変わるので、気分も明るくなります。

覗まで来ると、やや平坦な道となる。広葉樹林に変わる。
山の中は季節の進み方が早いのか、すでに冬枯れの風景で、しきりと黄葉が風に吹かれ落ち、道に散っています。
風穴、地蔵尊、山中茶屋跡……腹も空いてきた。
ここでいきなりシュールな風景にぶち当たります。
山の中に突如、シュールな建物群が現れた

森の中に別荘が!
私は山の奥へ奥へと分け入ってきたはずですが、冬枯れの木立の向こうにたしかに家が見えるのです。
目の錯覚かと思ったのですが、実際に木の間越しに別荘風の建物が見えます。
どうやってこんな山の中に家を建てたのだろう、人の気配はありません。打ち捨てられているような家です。
少し行くと、森の中にサビだらけのバスが放置されています。
バスの脇には、かつてのモーテルにあるような看板が立っています。
当然ながらいま登っている道は、バスが通れるような幅はありません。

どこに行くのか。
さらにバスの裏にはレストランのような大きい建物も見える。だいぶ前から人の手が入っていないようで、窓にはガラスがいっさいなく、コンクリの構造体だけが残っている。
なんだか夢の中を歩いているような気分になります。
あとでわかったのですが、このあたりはかつて「見晴台別荘地」として分譲されていたようです。しかし、いまは廃墟の見本市のようになってしまいました。自然が残ったのはよかったが、建物は撤去したほうがいいでしょう。
建材やバスは、おそらく上から舗装路をつけていたのでしょう。
ということはもうじき峠上りの終わりということです。
万葉歌人にならって子持山でちょっと一休み

峠を上り詰めたところにある不思議な光景。祠がたくさん集められていた。おそらく屋敷神なのだが、どうしてこうなってしまったのか。少し哀れを催す。
「陣場が原追分」という分かれ道に出ました。
子持山(こもちやま)という丘の麓にある広場です。歌碑があります。
「兒持山 若かえるでの もみづまで
寝も と吾は思う 汝はあどか思う」
「若蛙手」とは楓のこと。もみづはダ行上二段活用の動詞で、秋に色づくという意味。
訳すと、
こもちやま、若い楓の葉が色づくまで寝ようと私は思うけど、君はどう
ということかな。万葉集らしい大らかな歌です。
ここで荷物を下ろし、弁当をつかいます。
ふと遠くに人の声が聞こえてきました。
山道では時折、人の声が聞こえることがありますが、たいてい樹木同士が梢をこすりあって出している音で、ギイとかギュウとかいう音です。
しかし、今回は確実に男の人の声でした。
やがてふたりの人影が見えました。
男性ふたりと思ったのですが、あにはからんや老夫婦が峠道を上から降りてきました。
旦那の腰にラジオがついていて、男のアナウンサーの声が響いています。
こちらに気づいて挨拶をします。
ラジオは熊よけだそうです。すでにリタイアをして、街道歩きを趣味にしている夫婦で、すでに東海道は完歩したと言っていました。
そんな会話をしているところに、ふいに若者が現れ、挨拶をして去って行きました。
今までひとりも会わなかったのに、立ち止まると人と出会うものです。
その後さらに若い男女が峠を登ってきました。
天蓋のような紅葉に導かれて峠を上る

熊野神社は、紅葉真っ只中。
弁当も食べ、老夫婦とも別れ、碓氷峠を再び歩きます。
地図ではもうじき上り切って町に出るはずですが、行けども行けども坂道が続きます。
ホオノキの葉が一面に散り広がっていて、どこが道がわからないほどです。踏むとガサガサと乾いた音がする。
さすがに山道を迷ったかと思ったころ、あっけなく舗装路に出ました。
「力餅屋」と書かれた店が現れ、数台の車が停まっています。
急に人のざわめきが耳に飛び込んできます。
力餅屋の前には熊野神社があって、見事な紅葉が石段を覆っています。
もう登るのは嫌だと思いつつも、天蓋のような紅葉に惹かれて上りました。
拝殿のある高台からは遠く群馬県の平野が見渡せます。
はるけくも来たものだなあ。
その手前の碓氷峠と思われる森にも目をやります。
山では乾いたホオノキの葉が一面に広がる冬景色でしたが、今いるこのあたりは紅葉のまっ盛りです。山中は少し季節の進みが早いのかもしれません。

宮川 勉
中山道のリアル: エッセイのある水彩画集
5年かけてちんたらと中山道を歩き通しました。中山道というのは、東京の日本橋から京都の三条大橋までをつなぐ旧街道です。東海道は有名ですが、中山道はその山道版とでもいうロングトレイルで、信州や美濃といった山がちな場所を歩きます。そのときに心に残った風景を水彩画として描き、まとめたものが本書です。