アイヌ民族の案内でサハリン(樺太)を探査する松浦武四郎(松浦武四郎著『北蝦夷余誌』。国立国会図書館蔵)
豊かな自然が溢れる北海道はアウトドア・アクティビティの宝庫である。この広い大地は150年ほど前までは蝦夷地と呼ばれる未開の地だった。この蝦夷地に6度にわたって踏み込み、「北海道」の名付け親となったのが松浦武四郎(1818~1888)だ。今年2018年は生誕200年ということで、各地で松浦武四郎をテーマにした展覧会やイベントが開催されている。
松浦武四郎は伊勢(三重県)の松阪で生まれた。生家の前は伊勢街道で、全国からやってくるお伊勢参り(伊勢神宮への参拝)の人びとがいつも往来していた。彼らに接することで、武四郎は幼い頃から旅心を養っていたのだろう。
16歳のとき、武四郎は手紙を残して家出し、江戸に向かった。まもなく発見されて、いったんは郷里に帰ったが、翌年から諸国放浪の旅に出て、北は仙台、南は鹿児島に至る各地を転々とした。19歳のときには四国八十八カ所の巡礼も遂げている。路銀は、江戸で学んだ篆刻(ハンコ)を売ったり、儒教の講義をして礼金をもらったりして稼いでいた。
武四郎の人生で大きな転機となったのが26歳のときだ。旅先の長崎で、蝦夷地がロシアに狙われているという情報に接し、国防のためには蝦夷地の探査が必要だと感じたのである。久しぶりに郷里に戻った武四郎は28歳で蝦夷地の探検に旅立つ。誰にも頼まれていないのに危険地帯に赴き、取材レポートしようというフリーランス記者の先がけといってもいいだろう。
1回目の蝦夷地探検は、箱館(函館市)から東へ海岸線に沿って知床まで至り、29歳での2回目の探検では江戸幕府の松前藩が置かれていた松前(松前町)から時計まわりに知床まで至り、1回目とあわせて日本人初の北海道1周を達成。そして3回目は国後島、択捉島に足を延ばした。
武四郎は探検のたびに地形や地名、動植物、蝦夷地に暮らすアイヌの人びとの風俗などを詳細に記録し、文章や絵図を出版した。誰もが認める「蝦夷通」として知られるようになった武四郎は幕府から声がかかって役人となり、39歳、40歳、41歳とふたたび蝦夷地やサハリン(樺太)を探査した。
松浦武四郎が著述した『天塩日誌』では、アイヌ民族が用いる自動発射式の弓矢を紹介している(国立国会図書館蔵)
6度にわたる武四郎の蝦夷探検を支えたのはアイヌの人びとであった。アイヌの人びとに現地のガイドを頼んでいた武四郎は旅を重ねるうちに、自然と共生して暮らす彼らに共感を抱くようになった。アイヌの人びとが自分たちの食べる粥を飼っている犬に均等に分ける姿に感銘するとともに、アイヌの人びとをこきつかって搾取する和人(アイヌ以外の日本人)商人や松前藩の役人に反感をおぼえるようになるのだった。
いっぽう、アイヌの人びとも、自分たちが食べるマスの水煮やアザラシの肉をおいしそうにほおばる武四郎を変わった和人だと思っていたようだが、その人となりに親しみを感じ、友好関係を深めていった。ときには、武四郎はアイヌの友人とともに五右衛門風呂に入って談笑することもあった。
幕府が滅ぶと、武四郎は明治新政府に登用され、蝦夷地に替わる新名称を政府に提出した。提出した案のうちには「北加伊道」(ほっかいどう)があった。「加伊」とは、アイヌの人びとが自らの国を呼ぶ言葉といわれ、「日本の北にあるアイヌの人びとの国」という思いが込められている。結果として、政府は「加伊」を「海」に改めて、「北海道」が採用された。
その後、武四郎はアイヌ文化を排斥して開拓を進める政府の方針を批判して孤立。辞職して叙勲された従五位も返上した。政府から去った武四郎はすぐに「馬角斎」(ばかくさい)という雅号を名のった。
ふたたび市井の人となった武四郎は、北海道についての著述や日本各地の山岳霊場への登攀に人生の残りの日々を費やした。70歳のときには、富士山を一日で登頂している。蝦夷地探検時代に1日60㎞を歩いたという「鉄の足」の面目躍如といえるだろう。
富士山に登頂した翌年に武四郎は脳溢血で死去。東京の染井霊園にある墓石には「教光院釈遍照北海居士」という法名が刻まれている。
異文化に敬意をもって接した武四郎の旅は、現代の旅人にも学ぶところが多いだろう。
構成/内田和浩