※ 所属や肩書は取材当時のものです。
ナイフの刃先を高倍率顕微鏡で覗くと、そこに見えるのはギザギザの稜線だ。凹凸の連続で切る刃物の原理を、より特化させた道具が鋸である。鋸はなぜ小気味よく切れるのか。天然氷を切り出す現場であらためて考えてみた。
「今は作業の9割が機械。昔は全部が鋸での切り出しだったから、職人は体つきからして違っていたよ。今の人間には、もうあんなことはできないな」
阿佐美哲男さんは、エンジン式のカッターが次々と切り出す四角い氷を引き寄せながら、言葉少なに語る。
ここは埼玉県秩父郡皆野町。明治23年から天然氷を扱う阿佐美冷蔵の池だ。冬の冷え込みが厳しい盆地特有の気候を生かし、秩父で製氷事業が行なわれるようになったのは江戸末期といわれる。
天然氷は電気がない時代の冷熱エネルギーだ。切り出された氷は、昭和30年代までは断熱材で覆っただけの室で保存した。暮らしのさまざまな場面で活躍したが、とくに秩父で多かった需要が養蚕の種紙( カイコの蛾に卵を産みつけさせる厚紙 )の保存である。蚕の卵は室温だと一斉に孵化してしまう。孵化時期をずらして連続的に繭作りを行なうアイデアが、氷を使った保冷だった。
現在の用途はかき氷だけだが、宇佐美冷蔵のかき氷といえば、夏には平均2時間待ちの行列ができる秩父観光の目玉だ。
切り出し作業は、氷の厚さが15cmに達したときに行なう。この厚さはかき氷機のホルダー幅に合わせたものだ。秩父は天然氷の産地としては南限にあたり、15cmに育つまでには日数がかかる。天候によっては溶けてしまうリスクもあるものの、ゆっくり厚くなることで硬く締まったよい氷に仕上がる。
「硬い氷ほど、かき氷機の刃で削ったときによく膨らむんですよ。それに、この池の水は谷から引いた伏流水で、広葉樹の山のミネラルも溶け込んでいます。皆さん、普通のかき氷とはひと味違うとおっしゃいます」
こう補足してくれたのは、次男の亮二さんだ。
切り出し作業のほとんどは機械がこなす時代だというものの、手鋸もなくてはならない。薄い縁の部分や、面積が小さくなった氷に重い機械を乗せると、割れたり沈む危険がある。そんなときが手鋸の出番である。
氷用の鋸は木挽きが使うような大きなものだ。ひとつひとつの歯は大きく、したがって歯と歯の間の谷間も深い。先端は大工が使う鋸の歯ほど鋭角ではないが、ぴんと角が立ちナイフの役目を果たしている。柄を引くと、この歯が連続的に氷の結晶を削る。その際に起こる現象が膨張だ。結合が解き放たれ、瞬時にボリュームを増すのである。
かき氷そのものが、そんな氷の性質を利用したお菓子だが、膨らんだ氷が切り口に詰まると、摩擦で鋸が動かなくなってしまう。そこで重要な役割を担うのが深い谷間だ。ここに削り屑を溜めて外へ排出する。鋸の原理はどの用途も同じだが、切削後の膨張度の高い氷の場合、削り屑の排出はとくに重要になる。だから歯が大きいのだ。
出番はすっかり減ってしまったけれど、なくなってしまうと困るし味わいにも欠ける。天然氷とそれを切る手鋸の位置づけは、どこか重なって見える。
※ 所属や肩書は取材当時のものです。
文/かくまつとむ 写真/大橋 弘
※ BE-PAL 2015年4月号 掲載『 フィールドナイフ列伝 09 天然氷を切る鋸 』より。
現在、BE-PAL本誌では新企画『 にっぽん刃物語 』が連載中です!フィールドナイフ列伝でお馴染みの『 かくまつとむ&大槗弘 』のタッグでお届けしております!