最も自然に近い場所に位置する産業が養蜂業だ。1匹のミツバチが生涯の間に集める蜂蜜の量はわずかティースプーン1杯ほど。その貴重な幸を無駄なく採取するのに欠かせない刃物がある。
中国山地の谷筋にある蜂場の周囲では、ちょうど薄紫色のセンダンが花盛りを迎えていた。
「うちの蜂蜜はすべて山の樹木の花蜜なんですよ。センダン、シイ、地元でチナワと呼ぶエゴノキや、数珠イチゴの名もあるナツハゼ。これらは群生しているわけではないので、一般的な蜂蜜のように花の種別ごとには採れません。山の百花蜜として味わっていただいています」
創業77年になる宇津田養蜂場3代目の高橋明子さんは、巣箱をひとつずつ点検しながら、島根県における養蜂の現状を話してくれた。
初代のころは養蜂の黄金期だった。それは同時に、農村の生物多様性が最も高い時代だったという。水田には緑肥としてレンゲが、畑では裏作として油を搾るナタネが植えられた。いずれも優れた蜜源である。その恩恵は、ミツバチによる受粉や採れた蜂蜜のお裾分けというかたちで農家へ返された。
理にかなった共存のしくみを変えたのは、社会そのものである。農薬と化学肥料の使用を前提とした農業政策により、効率の悪いレンゲや競争力のないナタネは作られなくなった。
もうひとつの重要な蜜源だった山林の木は、蜜の出ない針葉樹に置き換わった。安価な輸入蜂蜜の登場や水飴を混ぜた偽装蜂蜜の氾濫も、良心的な養蜂家の経営に追い打ちをかけた。
島根県では有数の養蜂業者だった宇津田養蜂場も、次第に規模縮小を余儀なくされ、今は面積の減った雑木の山の中でひっそりと家業を守っている。
「クマが狙いに来るし、イノシシやサルも巣箱をいたずらするので、電気柵の点検も欠かせません。苦労は絶えませんが、これだけ山の中だと農薬が飛んでこないせいか、世界的に問題になっているCCD(※1)も、うちでは起きていません」(高橋さん)
限られた天然の樹木に頼る今、採蜜の回数は昔よりはるかに少なく、年に2回程度。そのぶん、ひとしずくの蜂蜜に込められた思いは強い。いよいよ蜜蓋を切る日は、高橋さんにとって最も心躍るときだ。
この採蜜作業に欠かせない道具が蜜刀である。蜜刀にはさまざまなタイプがあるが、宇津田養蜂場が使うのは、宮大工のヤリガンナに似た、先端がやや外反りになった鍛造品だ。
フラットな部分で広い面積を切り、反りの入った先端は巣枠の縁や角付近で使う。料理用の柳刃包丁でも代用になるが、反りが入った専用品は巣を削りすぎないので使いやすい。
外勤の働き蜂が集めてきた花蜜の糖度は30%程度。これを内勤の働き蜂が口移しで受け取り、膜状に引き伸ばしながら巣穴の壁にくっつけ、羽で風を送る。十分に濃縮したことを見届けると、吸湿しないように分泌した蠟で穴に蓋をかける。
象牙色の蜜蓋に刃を当て、ゆっくりすき取ってゆくと、露になった穴から琥珀色の液がねっとりあふれ出た。
※1 CCD(蜂群崩壊症候群)。ミツバチが帰巣能力を失い、群れが全滅する現象。原因にはさまざまな説があるが、ネオニコチノイド系農薬の影響を有力視する声が多い。
文/かくまつとむ 写真/大槗 弘
※ BE-PAL 2015年8月号 掲載『 フィールドナイフ列伝 13 養蜂家の蜜刀 』より。
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