「世界の果てまで川ぞいを走る」の合言葉のもと、水流ランを提唱。四十七都道府県の最高峰まで一筋の川のみをたどって海から走る “ZEROtoSUMMIT 47” を実施中。世界進出を狙いつつ、ランニングを通した表現のあらゆる可能性を試みている。家族の3人(妻、娘9歳、息子5歳)、とくに妻を愛するお父ちゃん。
福岡県最高峰「釈迦岳」を有明海からめざす!
福岡県の最高峰をご存知だろうか。福岡県人もあまり知らないらしく、現地でも言い当てた人はいなかった。英彦山(ひこさん:1199m)だと思っている人が多く、脊振山(せふりさん:1055m)という人もあったが、正しくは釈迦岳だ。
東の大分県(日田市:旧前津江村)側から、本城、普賢岳、釈迦ヶ岳と3つのピークがあり、これらをまとめて釈迦岳とよぶ。普賢岳(1231m)がわずかに高いが、福岡県(八女市:旧矢部村)との県境に位置する釈迦ヶ岳(1229.5m)に三角点があり、福岡最高峰の面目を保っている。
釈迦岳に降る雨粒は、6時から9時の方向に落ちれば矢部川、それ以外なら筑後川から、どちらも有明海に注がれる。釈迦岳と有明海をつないで走る一本となれば、やはり、九州一の筑後川がふさわしいだろう。今回は、筑後川沿いに釈迦岳をめざすことにする。
柳川、有明海から大川へ(1日目)
冬の三連休初日、恐ろしく混む新幹線で福岡へ、さらに鹿児島本線と西鉄を乗り継ぎ、柳川に到着。もうヘトヘトである。さっそく立花うどんで昼食。店内は地元客であふれかえっている。柳川出身の友人から教えてもらったここのうどんは、絶品だった。
船頭が唄う「まちぼうけ」をききながら、舟を横目に海まで歩く。さすが水郷、水路がはりめぐらされ、ミャンマーのデルタ地帯で暮らしていた記憶がよみがえる。
対岸の佐賀の山々を正面に、有明海にゼロタッチしてスタート。日が沈むのを見届けながら、家具の街・大川まで走る。
筑後川沿いに久留米、日田へ(2日目)
今朝の気温は1度。震えながら起き、旅館三川屋で朝食をとっていると、女将が話しかけてきた。フーテン風情のぼくに、何かを感じたのだろうか。話しながら、この走り旅を完結させなくては、と強く思った。さぁ二日目のスタートだ。
すこぶる快晴で、絶好のゼロサミ日和。河川敷はサッカー、ゴルフ、ゲートボールをたしなむ人たちで、にぎわっている。
ふと、下流から上流に向かって、泥色の川の水が逆流していることに気がつく。干潮の差が大きい有明海にそそぐ筑後川ならではの光景だろう。ちょっと感動した。
20㌔北上して、久留米に。水天宮は七五三の親子たちであふれている。建築に目をやると、無骨で力強い木組みだが、よくみると繊細で女性的。大川家具の源流にある船大工と木工、そして上流の林業をふくめた筑後川の歴史と、ふかい関係があるに違いない。
筑後川をすこし離れ、高山彦九郎の墓に向かう。京都の三条大橋のたもとで、御所に向かって拝んでいるあの男だ。江戸から群馬県太田市(当時は新田郡細谷村)までの百㌔弱を、何度もひと晩で歩きとおしたという。そんな彼の超人的な行動力に多大な影響を受けてゼロサミが始まったので、ここにはぜひ寄りたかった。
久留米をすぎると、中流域の風格になってくる。ふと、土手に祠が点在していることに気づいた。過去の断片をかろうじてとどめる祠と悠久の筑後川の流れ、その点と線の対比が、はかなくも美しい。
夜明けダムをすぎ、大分県に入ると、筑後川は三隈川と名を変える。今日のゴールも近い。
ホテルわきの唐揚げ屋がぼくをさそう。晩ごはんはもう唐揚げ以外に考えられない。
大山川からいよいよ釈迦岳に登頂!(3日目)
悪霊に取り憑かれた夢で目が覚めた。USBケーブルが体中にからまっている。昨夜は唐揚げを食べすぎて苦しくなり、いつのまにか寝ていた。まったく疲労が抜けないまま、最終アタック日の3日目スタート。
夜明けの三隈川とわかれ、いよいよ上流の大山川をたどりはじめる。ここから一気に勾配がきつくなる。
標高を上げながら、大山町、大山ダム、前津江村をあとにする。
山あいから釈迦岳が見えてきた。
地形図にはない道標と登山道があらわれた。かなりのショートカットとなりそう。さぁどうする。迷ったすえ、誘いに乗ってみる。やや苦労したが、ほどなく稜線に出た。
福岡県広川町の少年野球チームと、元野球少年のぼくで、いっしょに登頂。狭く、風をもろにうける山頂で、健闘をたたえあう。
帰りのバスの時間を気にしながら、御側川ぞいに八女市矢部村まで下山。バスと電車を乗り継いで、はてしなく長い帰途についた。
この福岡篇をとおして、筑後川が流域のひとびとの暮らしの大動脈になっているのを肌で感じた。とくに、建築・木工技術の伝達を介して人と物が筑後川の上流と下流を行き来していたことを、この地に立つにより、ぼくははじめて知った。書物からでなく、実感としてそれがわかったのがうれしかった。