わな猟師千松信也さんの暮らしのナイフ
野で働く人々にとって、ナイフは、お守りでも鑑賞品でもない。常に携え、手足のように使い続ける、いわば日用品のようなものである。使い込まれた刃物と、使いこなす本職との、切っても切れない物語をお届けしよう。
狩猟
「うーん、刃物ですか。僕はこだわりなんてないですよ。ブランド品みたいなもんも持ってないですし。だいたい狩猟仲間からの貰い物か、拾い物ですわ」
電話口でそう渋っていた千松さんだが、京都市郊外の自宅を訪ねると、座卓の上はすでにたくさんのナイフや包丁が一覧できるようになっていた。いずれも柄やブレードが黒光りしている。使い込まれてきた証だ。
京都大学在学中からわな猟を始めた千松さんは、大学の中でも自治の気風がひときわ強い学生寮で暮らしていた。初めてシカを仕留めたときはバイクの荷台に獲物をくくりつけて寮へ運び、見よう見まねで解体した。
寮仲間と焚き火を囲み、楽しく酒盛りをしたとき、肉という食べ物の存在意義を感じた気がしたという。この日の感慨が、週半分は会社に勤め、残りの半分を狩猟や山菜採り、養蜂など好きなことに充てる今のライフスタイルのきっかけになった。
自力で野の幸を得ようとしたとき、人間の歯や爪はあまりにも頼りない。それに代わるものが道具で、道具の象徴が刃物だ。
「獲物がわなにかかったら、僕の場合は棒でどつくんですよ。銃の免許を持ってませんし、このあたりはそもそも発砲のできない区域が多いので。ええ、危ないです。とくにオスのイノシシは怖い。近づくと牙を鳴らして全力で突進してきます。
脚にかかったワイヤーの状態を確認しながら、獲物を動けなくなる方向へ誘導し、間合いを測って思いっきりどつきます。シカは後頭部を一撃すればコロッと倒れるんですけど、イノシシは猪首というくらい首に筋肉があって、正面の眉間しか狙う場所がありません」
倒れても失神しているだけなので、すかさず大型のナイフを頸動脈か心臓へ突き刺す。血が湧き出れば、後は眠るように失血死する。その後はなるべく迅速に山から運び出し、内臓を取り出す。体内の熱で蒸れると肉に臭みが出て味が悪くなる。内臓を取り出したあとは流水できれいに洗い、ペットボトルで作った氷を詰めて冷却する。
家の作業場での皮剝きもなかなかめんどうな作業だ。きれいな枝肉になってからも、部位ごとに肉を切り離す脱骨、固い筋膜や腱を取り除く筋引き、そしてスライスと、肉が口へ入るまでにはたいへんな手間がかかる。
イノシシもね、すごいナイフをもっとるんですよ
それぞれの作業過程に、適材適所的な機能を持つ刃物がある。道具の細分化は日本人の文化的特徴で、狩猟に使われる刃物にも色濃く反映されている。これだけの刃物を持ちながら「こだわりはない」と千松さんが淡々と語るのも、そうした作業が、すでに息をするように自然な存在になっているからだろう。
薪割り
千松さんの暮らしの拠点は、住所こそ京都市左京区だが、盆地の縁にあたる山端だ。18年前、10年がかりで大学を卒業した。自由を謳歌した寮を出て引っ越し先を探した際、不動産屋に示した絶対条件が〈獲物を解体できる物件〉だったという。
自分でも半信半疑だったが、奇跡的に見つかったのがお堂として使われていた今の住まいだ。解体ができるどころか、庭先までシカやイノシシが現われる。ミツバチのにおいに釣られツキノワグマも忍び寄る。
木を使わんと山が荒れてきます
「最初は狩猟だけ考えていたんです。ところが家の裏を見ると倒木がいっぱいで。使えば山もきれいになる。暖房も風呂も薪にしよう。ついでに家も増築しよう、ミツバチも、ニワトリも飼おうとやりたいことが増えて。必然的に斧や鉈が増えました。もっともこういう道具もほとんどは街で拾ったもの。いい刃物が無造作に捨てられているのを見ると、ああ、またお爺さんがひとり亡くなったんやと、しみじみした気持ちになります」
山菜・キノコ採り
裏山は山菜やキノコの宝庫でもあった。一昨年に近畿を直撃した台風21号ではコナラなどの落葉広葉樹がかなり倒れた。山は歩きにくくなったものの、ナメコやヒラタケが大発生。しばらくは楽しめそうだという。そうした採集の際に身につけているのがポケットナイフだ。
「こういう暮らしをしていると、何かしら刃物がないと不便です。猟以外で山へ入るときとか、庭で作業をするときは波刃付きの折りたたみナイフを必ずポケットに入れています。波刃を選んだのはロープを切ることが多いから。普通の刃だと素材によっては滑ることがあります。ただそれだけのことですが、なんとなく波刃タイプに手が伸びます」
たまにナイフがポケットに入ったまま、四条河原町あたりまで飲みに行ってしまいそうになることがあるそうだ。それだけよく使い、手になじんでいるということでもあろう。
仕上げ研ぎは天然砥石。
猪油+蜜ろうのクリームで錆を止める
左はイノシシの脂肪を精製したラード。右はミツバチの巣から採った蜜ろうと混ぜ合わせたクリーム。比率で固さを調整できる。
京都といえば天然砥石の産地。千松さんが使っている仕上げ砥は、昔の砥石鉱山付近のがれき捨て場から拾ってきたもの。
単純な炭素鋼製の刃物の場合、研ぎ終えて保管するときに猪油と蜜ろうのクリームを布にとって拭き込む。これで錆知らず。
千松信也さん
1974年兵庫県生まれ。京都大学卒。週の半分は運送会社に勤務、あとの半分は狩猟などを軸にした自給的生活に充てる。著書に『ぼくは猟師になった』(リトルモア刊)など。
※構成/鹿熊 勤 撮影/大𣘺 弘
(BE-PAL 2020年6月号より)