自然とともに生きるライフスタイルをつくっている
BE-PAL創刊とともに日本にアウトドア文化がやってきて早40年。日本のアウトドアシーンを索引してきたキーパーソンへのインタビューリレー、今回は番外編です。前々編集長の酒井直人氏と前編集長の大澤竜二氏が登場。現編集長沢木とともに2000年代のBE-PALを語り尽くします。
おふたりともBE-PAL配属を希望されていたんですか?
酒井「私は1987年入社で、希望がかなって新人で配属されました。学生時代はラグビー漬けでキャンプに行ったことはなかったのですが、アウトドア道具が好きで創刊以来の読者でした。 編集部の人たちと取材に出て驚いたのは、先輩たちがよく遊ぶこと。ロケ先で撮影が終わると、皆すぐに釣りとかを始めちゃう。早く遊びたいから一生懸命仕事をしている感じで(笑)。会社の中では、「遊んで給料もらえていいよな」という目で見られていましたが、 BE-PALに限らず雑誌というものは自分が楽しまないといいページを作れません。それを体で覚えました」
大澤「僕は1988年入社で、最初は学年誌に配属され、ゲーム攻略本などを作っていました。そのころから、「BE-PALに行きたい」といっていたんです。というのも、高校・大学とアルパインクライミングをやっていたから。 念願かなってBE-PALに異動したのは 1995年です。僕のクライミングはヨーロッパ志向だったので、BE-PALのアメリカ志向のアウトドアはすごく新鮮でした。出張やロケが多いのも楽しかったですね。アメリカのOR(全米最大の展示会)に最新道具を見に行けるのはうれしかったし、折りたたみ 自転車の最先端の取材では、ヨーロッパ4か国を21日間かけて回りました。これが僕の人生最長の出張です」
酒井「自然の中で遊びながら自然の大切さや生きる知恵を覚えていくのがBE-PAL流。遊ばないで自然環境を語るよりも、遊んだ上で大切さや素晴らしさを語るほうが説得力がありますよね」
大澤 「何よりも自然を第一に考えようと、酒井さんはずっとメッセージを発していました。2013年に編集長のバトンを引き継いだ僕は、そのメッセージをさらに広く解釈して、今でいう SDGsのはしりみたいなことを始めました。アウトドアが再評価される中で、地方をアウトドアで元気にできるのではないか、BE-PALはそれをプロデュースできるのではないかと考えたんです。たとえば、現在も北九州市で継続中のパルパークプロジェクト。これは、日本中に焚き火ができる公園を作りたいという思いで始めたものです。 あるいは、道の駅のプロデュース。道の駅をアウトドアステーションにして、 そこから自然の中に遊びに行ったらおもしろいんじゃないか。そういった提案をいくつもの地方自治体にして、形にしていきました」
酒井「 一方で、付録も充実させたよね」
大澤 「BE-PALからいったん離れた 2002年、僕は分冊百科の編集を担 当していて『天然記念物』のシリーズを作ったんです。その創刊時、海洋堂さんにリュウキュウヤマガメのフィギュアを作ってもらい、BE-PALの付録につけてもらった。それが僕の付録事始めなんですが、先ほど話に出た30周年記念号のマルチツールがあまりにも衝撃的だったんです。僕もいつか売れる付録を作りたいと思って、それで生まれたのが焚き火台でした」
酒井「そして何よりの財産は読者との交流です。創刊後早い時期から、全国のBE-PALランドとの交流がありました。BE-PAL流のアウトドアが楽しめる地域を指定するもので、今のパルパークにつながる試みだったと思います」
「読む・読まれる」だけでない関係性が読者とあったということですね。
酒井「 メディアの中でも、たぶん一番早くから読者とインタラクティブな関係性を築いたと思います」
大澤 「その関係性はますます重要になっていくのではないでしょうか。今や個人がSNSなどで発信する時代です。 雑誌だけに新しい情報が載っている時代ではありません。そんな時代だからこそ、読者と一緒にBE-PALを作っていくこと、一緒にアウトドアを盛り上げていくことが重要だと思うんです」
公式YouTubeでインタビュー動画を配信中!
動画内では、3.11のときのエピソードや10年後のBE-PALについてなど、さらに詳しく語っています。ぜひ動画でも!
※構成/鍋田吉郎 撮影/小倉雄一郎 聞き手/沢木拓也(編集部)