「ブラチスラバ」って、聞いたことありますか?
こんにちは!フォールディングカヤックに乗ってヨーロッパのドナウ川を旅しているジョアナです。スタートはドイツ、ゴールはトルコ。全部で9か国を半年くらいで漕いで巡るキャンプ生活。たまにWi-Fiがあるカフェに寄っては、こうして記事を書いています。
今回紹介するのは、この旅で通る3番目の国、スロバキアでのエピソード。ブラチスラバというのはスロバキアの首都なのですが、実は私、実際に行ってみるまでそこが首都だということも知りませんでした。
私は、スロバキアのことを何も知らずに行ったのです。
知っていたのは、私がスロバキアに入国した当時、EUを含む諸外国からスロバキアに入国する際に、事前に新型コロナウイルスのワクチン接種状況に関してオンライン上で登録する必要がある、ということだけ。それだけはバッチリ済ませてスロバキアに入ったのですが、観光名所も、郷土料理も、スロバキアの単語ひとつ私は何も知りませんでした。せっかくの海外旅行で、こんなに予備知識ゼロって、どうなのよ。まさに川の流れに身を任せるかのような、スロバキア川下りの旅の開幕です。
大都会ブラチスラバ。それでも私はキャンプする
オーストリアを抜けてスロバキアに入って、まず気がついたこと。それは、建物の変化。川岸を埋め尽くしているのは、コンクリートの高層アパート。オーストリア、ドイツではいかにもヨーロッパらしい、どこか古くてあたたかみのある街並みだったのが、スロバキアの首都ブラチスラバに入った途端、直線的で無機質な建物が隙間なく並んでいるのです。この変化はあまりに劇的でした。だって、ブラチスラバがどんな町なのか、私は写真ひとつ見ないで来たのだから。
ドナウ川下りの旅の便利なところは、キャンプ場なんて見つかりそうにないようなこういう都会でも、テントを張れる場所があること。橋の下とか、人がこなさそうな雑木林の中とか、そういう勝手にテントを張ってしまう場所のことではありません。
私がお世話になったのは、「DUNAJCIK(ドナジー)」というカヌークラブ。キャンプ場としてお客を集客している施設ではないものの、ドナウ川下りの旅人のために芝生の広場を開放してテントを張らせてくれるのです。
ある朝起きると、住み込みでクラブを管理しているお兄さんがコーヒーを差し入れしてくれました。ここら辺の地域はエスプレッソ文化らしく、カフェに行ってもおちょこみたいなカップばかりだし、お兄さんがくれたのもガツンと目が覚める濃いやつ。続いてまた別の誰かがテントに近づいてくる足音が。
「いやー、これは珍しい!カヤックのそばにテント、っていったら中にいるのはドイツ人のおっさんだって決まっているようなものなのに」そう言って握手してくれた人物こそ、このカヤッククラブで一番偉い人でした。今までたくさん、ドナウ川下りの旅人を見送ってきたけれど、私くらいの年齢のアジア人女性は初めて見たとのこと。
曰く、ブラチスラバに複数あるカヌークラブの中でもドナジーは一番歴史があるそう。クラブの発足は1920年。1930年にはクラブの青年団が帆船を手作りして黒海まで行ったらしい。当時、ドナウ川を旅する人は今よりずっと珍しく、いろいろな町で大歓迎を受けながら旅を続け、帰りは蒸気船に乗って、皿洗いなどの手伝いをしながらブラチスラバまで帰ってきたという、大冒険の物語。冒険の人、というと私はつい世捨て人的な姿を想像してしまうけれど、この青年団が帆船作りをした際の一番の中心人物は、その後、大学教授になったとか。まさに、賢さと勇気を兼ね備えた若き船人たちが、このクラブの歴史を作ったという証明でもあります。
カヌークラブの中を案内してもらうことに。カヌーを保管する大きな倉庫。サウナとシャワー。それから薪ストーブで暖められた談話室。壁にかかっているカラフルな盾は、毎年一人、クラブの功労者が選ばれて制作するものだそう。
このクラブは、2013年に洪水の被害に遭っているそう。私が指を差しているのが、そのときに浸水した水位。というのもこのクラブ、土手の下に建てられているのです。ドナウ川の川岸から一段上がったところに林があって、土手はその林のさらに向こうに設けられています。このクラブの敷地は、林が開拓されたスペースに位置しているので、高さでいうと土手の下にあることになります。
ブラチスラバより上流、オーストリアのウィーンの辺りに、ドナウ川を一部せき止めているダムがあったのを思い出し、それが決壊したのかと尋ねると、「厳密には違う」との返答。あれは水力発電のためのもので、そもそも洪水を防ぐためのものではないというのが、ブラチスラバの人たちの認識。「ドナウ川はきっと、完全にせきとめるには大きすぎるのさ。ある一定の水位を超えたら、その分は全部諦めて流しちゃうんだよ」。だからまた将来洪水が起きても良いように、平屋建てのクラブを二階建てにすることを検討しているそう。
あの談話室の壁の盾も、いずれ二階へ移るのかもしれません。遠い将来、もし日本から誰かがドナウ川下りの旅に出てブラチスラバを訪れることがあれば、このクラブの姿がどうなったか、ぜひ教えて欲しいです。
川下りで学んだ、スロバキアの歴史
スロバキアのことを何も知らない私だけど、そもそもドナウ川を下っていなければスロバキアへ行く機会もなかったかもしれない。これは歴史を学ぶ良いきっかけだろうと、歴史資料博物館へ行ってみることに。
しかしまずそこで感じた違和感は、展示物の数よりも、やたらと文字の説明が多いということ。展示物の説明をスロバキア語+英語+ドイツ語+ハンガリー語の4か国語で表記しているから、4倍の文章量が並んでいるのです。残念ながら日本語はないけれど、なんとか英語なら読めるので、助かった。
自分の無知を公表してしまって恥ずかしいけれど、スロバキアというのは、やはりあの「チェコスロバキア」のスロバキアらしい。それにしても、なぜチェコとスロバキアは分裂したのだろう?
アウトドアとは直接は関係ないけれど、川を下っていたからこそ触れる機会を得た、スロバキアのざっくりした歴史を、近代から遡って少しだけ紹介します。
まずチェコとスロバキアがそれぞれ独立したのは1993年のことで、それはいわゆる「革命」でありながらも、ほとんど非暴力的な運動だけで独立することができたそう。
なぜ、「革命」なのに非暴力で行なわれたのか?歴史に疎いながらも、博物館の展示を参考に私なりに解釈してみると、これにはいくつかの要因が重なっているように思いました。そもそもチェコスロバキアは、はじめから一心同体ではなかったのかもしれません。チェコスロバキアの建国は、1918年。第一次世界大戦の終結とともにオーストリア=ハンガリー帝国が、いくつかの国に分裂していったころのこと。かなりざっくり解釈すると、チェコとスロバキアの民族は、それぞれが独立したアイデンティティを持ちながら、動乱の世を小国が生き残るための生存戦略として、チェコスロバキアとして合体したと考えると、腑に落ちます。
その後、1989年の社会主義の崩壊やベルリンの壁の崩壊を経て、世界的に自由と独立の雰囲気が高まるなかで、チェコとスロバキアも元どおりの別々の民族として、平和的にそれぞれが独立の道を選ぶことができたのかもしれません。
ブラチスラバは、小さくなんかない
翌朝、キャンプ場の近くに屋外ボルダリングウォールがあるのを見つけた私。それは、観光地化したブラチスラバの中心部からは少し離れていて、きっと観光客が行くような地区ではない、ブラチスラバの本当の姿が垣間見えるような場所でした。
ネットで調べてみると、ブラチスラバは「小さな首都」として紹介されているようです。だけど実際にブラチスラバの町を歩きまわると、小さいのは観光地化した区域だけで、それなりに大きな町であるように体感したのです。
バス停に行けば、列を作る人々の姿が。住宅街は団地のようになっていて、一階には商店が入っています。いくつ角を曲がっても、それがどこまでも続いているのです。人々が生活し、忙しく働いている雰囲気が町中を包んでいるのです。それはつまり、ブラチスラバの町がまさに、変化と前進の過程にあるということ。
30年前、チェコスロバキア時代のブラチスラバがきっと今と違う町であったように、30年後のブラチスラバも、今とまったく違う姿のはず。ほかのヨーロッパの人気都市と違って観光スポットは少ないかもしれないけれど、また遠い将来にもう一度来て確かめてみたいなあ。
旅人を応援してくれたのは、やはり旅人だった
たまには外食でもしようと、レストランへ行ったのが、午後3時ごろ。中途半端な時間で閑散とした店内で、ノートに休みなく筆を走らせるおばあさんの姿が。私も記事を書こうとキーボードをカタカタ鳴らしていると、「ねえ、あなたも私と同じ、旅の人なんでしょう?」と話しかけてくれました。
おばあさんは、キリスト教にゆかりのあるヨーロッパ中の土地を巡礼する旅をしているのだそう。本当は徒歩で巡礼するところを、電車で町から町へ移動しながら、それぞれの場所を歩き回って探索するのが楽しみなのだとか。
私がカヤックでドナウ川を旅していることを伝えると、とても驚いてくれて。そのおばあさんが帰ったあと、ウエイトレスさんが来て伝票を差し出しながら一言、「先ほどのお客様からプレゼントです」。
えっ、どういう意味だろう?と伝票を開くと、そこには20ユーロ札。「美味しいものでも食べてね」というメッセージが。
なんてキザなおばあさんだろう。私もいつかおばあさんになったら、こうやって旅人を応援する人になりたいなと、また将来の夢がひとつ増えるブラチスラバでの1日でした。