葦船で海を渡る海洋冒険家、石川仁さんが語る「普通の大学生が冒険家になるまで」
探検家・関野吉晴さんが、時代に風穴を開けるような「現代の冒険者たち」に会いに行き、徹底的に話を訊き、現代における冒険の存在意義を問い直す──BE-PAL5月号掲載の連載第10回目は、葦船でサンフランシスコからハワイまでの航海を目指している石川仁さんです。
「もともと冒険をやろうなんて考えはなかった」――語学留学が初海外だった普通の大学生が冒険人生を始めたのはなぜか? 石川さんの思考の変遷に関野さんが迫ります。その対談の一部をご紹介します。
関野吉晴/せきの・よしはる
1949年東京都生まれ。探検家、医師、武蔵野美術大学名誉教授(文化人類学)。一橋大学在学中に探検部を創設し、アマゾン川源流などでの長期滞在、「グレートジャーニー」、日本列島にやってきた人びとのルートを辿る「新グレートジャーニー」などの探検を行なう。
石川仁/いしかわ・じん
1967年千葉県生まれ。サハラ砂漠単独横断など世界各地を旅した後、探検家キティン・ムニョス氏に師事して葦船を学び、国連公式太平洋横断プロジェクト「エクスペディション・マタランギ」に参加する。2005年、高知県足摺岬から東京都神津島まで日本初の葦船での外洋航海。現在まで約300艘の葦船を製作。
転機となったサハラ砂漠2700km
関野 なぜサハラ砂漠に行こうと思ったのですか?
石川 ひとことでいうと、“死“に触れてみたかったからです。インド以来、僕は、「幸せって何だろう?」と真剣に考え続けていました。都会の人、文明から離れて暮らす人、お金持ち、お金のない人…。誰にでも共通する幸せの基準とは何かを考えながら旅をして、辿りついた答えが、「生きているだけで心が満たされること」でした。
その状態にいたることができれば、どんなトラブルに遭っても大丈夫です。だから、「生きているだけで十分」と感じられる体験、すなわち死に触れるような体験をしたいと切望しました。そのためにどこに行こうか思案しているときに読んだのが、『サハラに死す』でした。著者の上温湯隆さんはサハラで亡くなっていて、残された日記を元に作られた本です。上温湯さんと同じサハラ砂漠横断に挑めば死ぬかもしれません。でも、生きて帰れれば、「生きているだけで十分」という気持ちに辿りつけるはずだと思ったんです。僕はラクダとともにアルジェリアからニジェール、マリへと半年かけてサハラ砂漠を2700km歩きました。
関野 上温湯さんは途中でラクダに逃げられて渇死しています。
石川 僕も、2頭でスタートとしたのですが、最初の晩に1頭に逃げられてしまいました。扱い方にまだ不慣れだったせいです。その後は残った1頭と旅をしたのですが、木が生えているところで寝る夜は、葉を自由に食べさせるために放すんです。足同士をロープで結んでいるので遠くまでは行けないものの、朝起きるといなくなっている。どこか離れた次の木に移動しているんですね。3日のうち2日は姿が見えなくなっていて、足跡を追って探しに行かなければなりませんでした。ラクダが見つからなければ、それは死を意味するので、毎朝命懸けでした。
この続きは、発売中のBE-PAL5月号に掲載!
公式YouTubeで対談の一部を配信中!
以下の動画で、誌面に掲載しきれなかったこぼれ話をお楽しみください。