自動車ライター・金子浩久が過去の旅写真をひもときながら、クルマでしか行けないとっておきの旅へご案内します。クルマの旅は自由度が大きいので、あちこち訪れながら、さまざまな人や自然、モノなどに触れることができるのが魅力。今回の舞台は、中国西部のシルクロード地帯。旅の相棒はマクラーレンの「650S」です。
西安から敦煌までシルクロードを旅する
2014年に同行取材した「マクラーレン・シルクロード・ドライビングエクスペリエンス」では大変に興味深い取材ができて、得るものがとても大きかった。
マクラーレンチャイナが主催したカスタマーイベントで、参加費を支払えば誰でも参加できる顧客向けドライブ旅行だった。
西安、つまりかつての唐の都、長安から出発し、各地の名所旧跡などを巡りながら敦煌まで走る。走るだけでなく、アクティビティも充実していた。個人旅行では難しいチベット仏教の高僧の説話を賜ったり、湖をクルージングしたりもした。チャリティ活動も重視していて、孤児院にボールやスポーツウェアを寄付したり、敦煌の莫高窟の洞窟のひとつの中の仏教画の修復に寄付を行なったりもした。
行程は、10日間で約2500km。クルマはマクラーレン「650S」と「650Sスパイダー」を3台づつ計6台。参加費は、10日間の宿泊、食事、ガイド、入場料などすべてが含まれてひとり約50万円。途中参加の人もいた。
最新鋭のマクラーレンを運転して、一流ホテルに泊まりながら高級な旅ができる。約50万円という費用も、内容を考えれば、割安だ。マクラーレンは、このツアー自体で収益を上げようとは考えてなくて、あくまでも販売促進であり、マーケティングであり、宣伝の一環として実施している。参加者各自が旅行中に発信してくれるので、SNS時代にはピッタリだ。もちろん、僕のようなメディアの同行取材も並行して行なうことができるから、なおさら好都合だろう。
こうした顧客参加型のツアーは、マクラーレンだけでなく、もう15年以上前ぐらいから多くのヨーロッパの自動車メーカーが開催している。ポルシェなどは、専門に扱う法人「ポルシェ トラベルエクスペリエンス」まで擁して、積極的に展開しているほどだ。
内容が充実しているとは言っても、ひとり50万円払って10日間休める人は、さすがの中国でも一般的ではない。参加者たちは、富裕層のクルマ好きが中心で、中にはツアーの実際を体験して自らの事業の参考にしたいと参加して来た積極的な若手起業家もいた。
余裕のあるスケジュールだったので、食事や休憩の際に彼らと話すのは楽しかった。日本人は僕だけなので、モノ珍しさからか彼らも僕と話すのを面白がってくれたようで、交流できたのも良かった。
6台のスポーツカーを束ねる絶妙なガイド技術
それまでに、中国の路上を走ったことは何度かあった。長いものでは、カザフスタンとの国境から北京まで走ったこともあったが、今回のルートは初めてだ。
西安中心部の安達門で出発セレモニーを行ない、混雑した街中を抜けて高速道路に乗った。6台のマクラーレンの先頭と真ん中と最後尾には各インストラクターが運転するトヨタ・ランドクルーザープラドが配され、進路を見失わないようにしていた。その他のスタッフたちは別のミニバンなど数台に分乗し、次の目的地に先回りしていた。
各車には無線機が備え付けられていて、チーフインストラクターのシーケーからの指示が飛んでくる。
「次の交差点で右折するので、いちばん右側の車線に移って下さい」
西安は大都会なので、片側5車線もあるような幹線道路にはたくさんのクルマが走っている。6台のマクラーレンの間に他のクルマが紛れてしまったり、信号で途切れてしまうこともある。
「オッケー、最初の2台はそのまま私のランドクルーザーに付いて走ってきて下さい。後ろの4台は信号が青に変わったら、交差点を右折して下さい。もう一台のランドクルーザーが前に出て誘導しますから」
シーケーのその言葉通り、横の車線を走っていたスタッフカーのランドクルーザーが、信号の変わり目を素早く捕まえて、3台目のマクラーレンの前に飛び出した。さらにもう一台のランドクルーザーは6台目の後ろにピタリと付き、それ以上、バラけないようにフォローに回った。まるで、初めての草原にやって来た慣れない羊の群を誘導する番犬と羊飼いのようだ。そのタイミングの取り方が絶妙だ。
シーケーはモータースポーツの経験もあり、こうした自動車関連のイベントやディーラーの研修などでインストラクターを務めていて、経験豊富なことはすぐにわかった。マクラーレンだけでなく、ベントレーやアストンマーティン、ポルシェ、メルセデス・ベンツなどがクライアントだという売れっ子だ。英語と複数の中国語を話し、フレンドリーな性格で、誰とでもすぐに打ち解けていた。家族の住むシンガポールと中国各地を忙しく往復しているとのことだった。
マイペースすぎる中国人ドライバーたち
西安から蘭州、西寧、張掖、酒泉と、毎日、高速道路や一般道などを北西に進みながら旅は続いていった。
蘭州ぐらいまでは、大きな町には高層ビルが林立し、インターチェンジもいくつもあるような近代都市が連続していた。それが蘭州を過ぎるぐらいから、高い建物や人工物が眼に見えて少なくなっていった。あっても、建物は低く、くすんだ色をしていて古い。山は険しくなり、トンネルをくぐって平原に出ると、地平線まで見渡せたりする。都市部は超近代的だが、地方には大自然がそのまま残っている。対比が、あからさまだ。650Sのハイペースで移動していると、中国の広さと開発の進捗具合がとても良くつかめた。
道中のできごとは帰国直後に長めの紀行文を書いたので繰り返さないが、今でも時々思い出すのは、高速道路での中国の人々の運転だった。
中国は日本と反対の右側通行なので、複数車線あるところでは、右側が走行車線で左側が追い越し車線となる。大型トラックやバスなどは右側の走行車線を淡々と走っている。
乗用車も基本的には右側を走行していて前方のクルマを追い越す時にはウインカーを出して左側へ車線変更し、追い越しが終わったら右側へ戻るという原則が貫かれている、はずだった。
しかし、その原則通りに走っているクルマが少ない。西安から内陸部に進むにつれて、つまり、都市部を離れて地方に向かうのに比例して、その種のクルマが多くなっていった。
そうしたクルマたちは、走行車線が空いているのに追い越し車線を走り続け、後方から別のクルマが迫って来ているのに気付かない。気付いていたとしても、走行車線に戻ろうとしないから、後ろから来たクルマは車間距離を詰めてしまう。
ここで反応が分れる。詰められたことに気付き、慌てた様子で走行車線に戻るクルマもいる。
しかし、詰められても意に介さず、“オレがなんでお前のために走行車線に移らなきゃいけないんだ!?”とばかりに居直って走り続けるクルマも少なくない。
追い越しをしたいクルマは原則に反して右側(日本だったら左側)から追い越すことになり、その時に2台が交錯してしまう可能性が生じる。最悪、衝突するだろう。
いずれにしても、「追い越しが終わったら、すみやかに走行車線に戻る」という原則が守られず、路上が混沌として、走りにくく、安全を保てない。
実際に、蘭州を出てすぐに僕らの650Sの前には、最新型の黒いメルセデスベンツのSクラスが追い越し車線に居座り、走行車線に戻る気配がなかった。Sクラスを抜けないものだから、僕らの後ろにも別のクルマが詰まってしまっている。
「仕方がないから、注意深く右から抜いてしまおう」
僕とペアを組み、650Sの助手席に座っている香港版『TopGear』誌の編集長、エドモンド・ラウさんも呆れてしまっている。
「彼らは、インターナショナルスタイルを知らないですからね」
なるほど!
たしかに、インターナショナルスタイルだ。右側通行だろうが、左側通行だろうが、この原則は変わらない。先進国でも、発展途上国でも変わらない。
「なぜ、彼らはインターナショナルスタイルで運転できないのだろう? ラウさんは、どう思いますか?」
「モータリゼーションが急速に普及して、そうした原則を知ることのない多くの人々が一気にクルマを所有して運転することになったからではないでしょうか」
「ドライバー教育が現実に追い付いていないということですね」
「ええ。教習所や免許試験などでは、そこまでカバーし切れていないのでしょう」
「運転のコモンセンス(常識)の醸成には時間が掛かり、中国ではそれよりもクルマの所有や高速道路などの交通インフラの普及の方が早かったということなのでしょうね」
「そういうことだと思います」
ラウさんは、香港生まれの香港育ち。仕事でもプライベートでも欧米や日本を忙しく往復しているから、“インターナショナルスタイル”を熟知している。
追い越し時のマナー、日本はどうか?
翻って、日本の場合を考えてみると、決して中国のドライバーたちのことを指弾できない。まったく変わらない光景が日本全国の高速道路上で展開されているではないか。テレビのニュース番組や動画共有サイトなどで、煽り運転の映像が流されている。
煽り運転は、もちろん煽る側に100%非があるのだが、“インターナショナルスタイル”ではない、走行車線に戻れないドライバーがキッカケを作ってしまっていることも少なくない。
インターナショナルスタイルとは、漫然と追い越し車線を走ることなく、基本は走行車線を走ることだ。走行車線が覚えにくいのならば、“端に戻る”と意識すること。
また、大切なことは、車線を移動する際には長めにウインカーを点滅し続けることだ。意思表示とコミュニケーションが、煽り運転の発生を確実に抑えることができる。僕は最近では高速道路での車線移動では必ず10回前後ウインカーを点滅させるようにしている。
10日間、中国の人々と一緒に旅ができたのは本当に貴重な経験となった。あれからもう8年も経つが、今でも良く思い出す。中国のクルマ社会の進化は早いから、次に中国を走ることができた時には、どれだけ上書きされているのだろうか。そして、その前に我が日本の高速道路運転事情も上書きされなければならない。