その土地、その場所だからできるビールがある。飲めるビールがある。ローカルを大事にするクラフトブルワリーを訪ねるシリーズ。今回は群馬県高崎市のシンキチ醸造所の代表であり醸造長の堀澤宏之さんに話を聞いた.
ありそうでない、食中酒としてのビールを求めて
高崎駅から歩いて10分弱。住宅街の三軒長屋の真ん中にシンキチ醸造所はある。左隣は和菓子屋。右隣は民家。いつからあるのか、50年は経っているだろう。最近続々オープンするクラフトビールのブルーバーは、おしなべてオシャレな雰囲気にあふれているが、ここはちょっと違う。一見して長屋。通りから中をのぞく。居酒屋かな?店内に入ると、やはり居酒屋にしか見えない。しかもかなり古い……昭和40年代くらいの香りがする。
シンキチ醸造所は2016年にオープンしたブルーバー。そこだけ映画のセットのように残された三軒長屋の、元理容店だった店舗をリノベした。通りに面したスペースを店舗に、奥の住居だったスペースを醸造所に。
代表の堀澤宏之さんは日本料理の料理家である。以前は、出身地の伊勢崎市で和食の店を営んでいた。2014年に、和食とクラフトビールを気軽に楽しめるお店にしたいと、高崎に移り、「ザブン」という名の店を高崎駅の近くにオープン。その2年後、2016年にシンキチ醸造所を開いた。
「お客さんにお酒を飲んで楽しかったと思ってもらえることを大事にしたい。私は料理人ですから、料理を食べて“これ、おいしいね”と言ってもらえるのは、もちろん、うれしいのですが、それに加えてお酒を飲んで“これ、おいしいね”と言ってもらえると、もっとうれしいんですよ。満足感が違います」
醸造所をつくった理由はもうひとつ。つくりたいビールがあったからだ。ザブンでは、自分の気に入ったクラフトビールを出していた。主に日本のクラフトビールをタップで。もちろん料理に合うものを。そうして気づいた。「和食に合う、食中酒のビールがない」と。
日本では、ビールはどんな料理にも合うと思われているフシがある。おかずなら、たとえば唐揚げ、餃子、天ぷら。とても合う。しかし、たとえば魚料理や刺身、おひたし、お新香などにラガーのビールが本当に合っているかといえば、どうだろう。
「ビールと合うとか、合わないの“合う”とはどういうことなのか。私もはじめは言葉にできなかったのですが」
ビール醸造を始め、食中酒としてのビールを追求した。そして、今はこう説明する。「喉で味わうビールと、舌で味わえるビールの違い」と。「冷たさや炭酸の刺激を感じるのは喉です。ワインは舌で味わいますよね。日本酒もそう。熱燗なんて喉じゃ飲めませんよね。私はビールをつくりたかったわけじゃなくて、和食に合う麦の酒がつくりたかったんだと気づいた、それが2年くらい前です」
ビールでなくてもいい……。
堀澤さんは自分の飲みたいビールを追求してブリュワーになったのではなく、食中酒としてのビールを求めてブリュワーになった。シンキチ醸造所のタップから出てくるのは冷たいビールだ。しかし堀澤さんは、常温でもおいしい、炭酸が抜けてもおいしいビールをめざしている。
サードプレイスを求める人とクラフトビール好きに共通点が
現在、堀澤さんは高崎駅近くの和食とクラフトビールのお店ザブンと、シンキチ醸造所の2店を経営する。ところで、伊勢崎市出身の堀澤さんが、クラフトビールの店をやるなら高崎を選んだ理由は何だろう?
「数年前、サードプレイスという言葉が流行ったでしょう。自分もサードプレイスを求めているなと思ったし、それは伊勢崎より高崎のほうが向いている。もうひとつ、サードプレイスを求める人とクラフトビールが好きな人に共通点があるなと思います」
どんな共通点?
「どちらも、どちらかといえばマイノリティですよね」
たしかに圧倒的多数は大手のラガービールを飲む。わざわざ高いクラフトビールを買ったり、うまいクラフトビールを求めて出かけたりしない……と、ある程度、筆者も納得。それにしても、マイノリティ(少数派)を相手に商売になりますか? と訊ねると、「うちは1日50杯出れば回るモデルになっているので」と言う。「といっても、この店だけでは50杯は出ません。ザブンと、町の飲食店が数店、うちのビールを仕入れてくれています。うちは醸造設備が小さいので、1日50杯くらいがちょうどいいんです」
小規模な設備、小規模な商い。酒屋さんに卸すほどの量はない。だからお店に行って飲むしかない。コロナ禍前まで、ごく小規模なブルワリーでは、これがノーマルだった。
「オープン当初は、近所の人たちに飲みに来てもらえればいいなと思っていました。オープンして3年くらいは、そんな感じで、近所のお客さんも少しずつですが増えてきたのですが」
2020年春、コロナ禍でその流れが、ふっつり切れてしまった。今年の3月21日でまん延防止重点措置は解除されたが、まだ以前の客足が戻っていない。ただ、今は週末になると、県外からクラフトビールファンが訪れる。
4月の土曜日の昼。取材後に開店直後のカウンターでビールを飲んでいると、常連さんが一人、二人とやって来た。ビールとつまみを頼み、カウンター越しにスタッフと近況報告まじりのおしゃべりを始める。たまに飲みに来る近所のお客さんだそうだ。
ガラス越しに醸造タンクを見ながら、ラガーを飲んだ。喉ごしとか刺激を求めずに。料理に合わせて飲んでいると、驚くほどあとに残らない。味が薄いわけでも、個性が弱いわけでもない。むしろ、はっきりしいている。たとえば「金柑Jr.」は、ほのかに、たしかにキンカンが香る。
長期熟成すればするほどロマンが宿る
コロナ禍に覆われたこの2年の間に、全国のブルワリーのビールがオンラインで手に入るようになった。小さなブルワリーほどオンラインショップの開設が急がれた。死活問題だったからだ。
シンキチ醸造所はといえば、オンラインショップは開いていない。もともと小売りをするほどの醸造量がなかった。しかし堀澤さんは2年前からビールの瓶詰めを始めた。そして醸造所の裏手に貯蔵用の冷蔵庫を設置した。
「長期熟成に惹かれます。先日も、2年前に詰めたグルトというベルギービールの酵母を使ったビールを開けたら、詰めた当時よりおいしくなっていました。発酵の醍醐味です。発酵のおもしろさは時間に耐えられること。時間とともに味が変わるけれど、どう変わるのかは、栓を開けて飲んで初めてわかる。ロマン以外の何ものでもない」と、堀澤さんは楽しそうに話す。
生まれた年のヴィンテージを贈り、二十歳になったら開けて—–という粋な計らいがワインにはあるが、ビールでもそんなプレゼントが可能だろうか。
「アルコール度がワインより低いのでリスクはありますが、そういう楽しみもありますよね。待っている間も楽しみだし、20年後に開けてそれがおいしかったら、それまでのすべての時間が豊かになるような気がしますよね」
高崎駅から徒歩10分弱。ほとんど住宅街。喫茶店のような、居酒屋のようなブルーバー。三軒長屋の真ん中で、ひっそりと、何年後かわからないが開栓される日を待つビールが冷蔵庫で眠っている。瓶詰めしたビールは、店内で飲むこともできる。たとえば、2年物のグルトを注文して2年の時間を味わうなんてことができる。なんと贅沢なブルーバー。小さなお店、小さな醸造所、地道な商売。今後の予定を聞くと、
「まだ今年は何とも言えませんが、地元のイベントが開催できて声をかけていただけるなら出店したいと思っています。ただ、うちは少量しか出せないので……。お店に来てくれる人が増えてくれるのがいちばんです。そしてなにより、自分のめざすビールを実現させること」と話す。
和食と合うビール。料理がうまくなる麦の酒。いつか開栓する日を楽しみにしながら、堀澤さんはビールを仕込みつづける。
シンキチ醸造所 群馬県高崎市若松町2−11
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