その土地、その場所だからできるビールがある。飲めるビールがある。ローカルを大事にするブルワリーのビールを飲みたい。第34回は、神奈川県茅ヶ崎市で1996年から湘南ビールを造りつづける熊澤酒造。6代目熊澤茂吉さんにインタビューした。
湘南の人々が日常使いできる酒をつくるために
JR相模線の茅ヶ崎から2つめ、海老名から7つめ。香川駅を降りるとひなびた駅前。しかしそこから歩いて10分もしないところに、避暑地に来たような気分になる一角がある。湘南ビールの醸造所があり、その製造元である熊澤酒造の本拠地だ。ブルワリーを抜けると、カフェにベーカリー、トラットリア、和食レストラなどが新緑に囲まれていた。
熊澤酒造はここに、明治時代1872年に創業した酒蔵だ。その6代目を襲名した熊澤茂吉さんが「湘南ビール」をつくり始めたのは1996年のこと。地ビール解禁から間もないころだ。当時は、もともと醸造技術をもった日本酒の酒蔵が立ち上げた地ビールブランドが多く見られた。エチゴビール(新潟)、常陸野ネストビール(茨城県)、独歩ビール(岡山)、いわて蔵ビール(岩手県)などなど、今日のクラフトビールを語る上で欠かせない醸造所は少なくない。
茂吉さんが酒蔵を継ぐ前のことだが、まだ20代の茂吉さんがアメリカを放浪して帰ってくると、熊澤酒造は廃業の危機に瀕していた。1990年代初めのこと、日本酒人気は下降する一方だった。
「当時、うちはこの地域の酒屋さんの下請けのようなもので、売れ筋の安価なお酒をつくっていました。その一方で、品評会に出すための高級酒を、手を掛けてつくっていました。賞を取ることでブランドを維持するわけです。安酒と高級酒に二極化して、地元の人たち日常的に楽しめる酒がなかった」と、当時の様子を振り返る。
湘南といえば、全国でも有数のブランドエリアである。そこで100年以上経営しながら、地域の人に愛される酒がない……。湘南の人々のライフスタイルに合った、ふだん使いできるおいしい、そして決して高くない酒をつくろう。6代目に就任した茂吉さんは一大決心をした。
酒屋の下請けをやめた。品評会向けの高級酒づくりもやめた。地元の人の口に合った酒を造るために、地元の杜氏から育てることにした。それには少なくとも5年はかかる。その間をつなぐ策として、茂吉さんはビールづくりを始めたのだ。
「もともと日本酒造りは寒造りといって冬場に忙しい。冬は酒造り、夏はビール造り。両輪の輪で立て直そう」という考え方だった。
茅ヶ崎、寒川、藤沢。このあたりは昔、相模国の一大米どころだったそうだ。遡れば、弥生時代のころからの農耕の跡がみられるという。相模湾に流れ込む相模川、境川らに挟まれた豊かな農耕地。その田畑が高度成長期の中で徐々に失われていった。熊澤家も農業と酒造りをするかたわら農業を営んでいたが、やがて田畑を手放した。冬場は酒造り。夏は田作り。そうしたライフサイクルも失われていった。茂吉さんが生まれる少し前の話だ。それを茂吉さんは冬は酒造り、夏はビール造りに変えた。
1996年、湘南ビールが発売された。当時、日本各地で地ビールブームがわき起こっていた。
「うまく波に乗れたのかなと思っています」
ブームは続かないものだが、しかし、地ビール人気がフェイドアウトしていくころ、本業の酒造りでは新しい杜氏が育ち、新しい製品が生まれていた。湘南の人々の口に合う、毎日飲んでおいしい酒。「天青」(てんせい)と名づけられた。
2011年には、藤沢駅の近くに「MOKICHI CRAFT BEER」というビアレストランをオープンしている。11年前というと、ビールファンの間でIPAが話題を呼び始めたころ。湘南ビールの取り組みは早かった。定番ビールに加え、さまざまな素材、レシピに挑戦した限定醸造ビールを次々と発売した。今も年間25〜30種ほどのビールを醸造している。
大きなメタセコイアの木の下で
茂吉さんが湘南ビールと同時に着手したのが、醸造所の敷地内にレストランをオープンすることだった。できたてのビールがその場で飲める、今でいうところのタップルームである。
熊澤酒造のある地域は、湘南といっても観光客が集まる場所からは離れている。茅ヶ崎といっても、江の島が見える所ではない。冒頭に書いた通り、駅を降りても何もないが、逆にそれを活かした。
「ビールが各地を旅する(流通する)んじゃなくて、人が旅に来てもらうビールをつくろうと。お客さんにビールづくりを見てもらうためにレストランをつくりました。言ってみれば、ビール営業部の代わりに直売所をつくったわけです。日本酒とビールと直売所、うちはその3つがセットで26年間やってきました」
最初のレストランは、酒の道具をしまう土蔵蔵を改修してつくった。その後、熊澤家の母屋を外に移し、跡に鎌倉から築450年の古民家を移築し、そこにレストランを移した。初めのレストランは改修を重ねて現在、ベーカリーとスイーツ工房、ソーセージ工房を有する直売所&カフェに姿を変えている。コンクリート張りだった地面はコンクリを剥がして石畳に。緑のなかった敷地に樹を植えた。
26年が経って今、緑陰の庭をトラットリア、和食レストラン、カフェ、ベーカリー、ギャラリーが囲む。その真ん中にそびえるメタセコイアの樹。26年前に植えたときは高さ3メートルくらい。今は10メートル以上に伸びて、幹も抱えるほど太い。
田んぼを残すぞ「熊澤酒造酒米プロジェクト」
3年前から熊澤酒造は「酒米プロジェクト」を始めた。このあたりにも耕作放棄地が広がる。ブランド米があるわけでもなく、もはや米どころでもない。日本各地、そうした地域で耕作放棄地が増え続けて数十年が経つ。いよいよあと10年か20年すれば、本当にこの地域から田んぼがなくなる、今その分岐路を目の当たりにしていると茂吉さんは認識している。そこで社内に農業部門をつくった。
「うちが造る日本酒の原材料の米をすべて地元の米でまかなうと、ちょうど今ある水田がすべて残せることがわかった」という。つまり、現在残っている田んぼに加え、耕作放棄地になっている田を復活させれば、その収穫で、熊澤酒造が年間に使う米の量がまかなえるということだ。
酒米プロジェクトは、1反の田んぼ(300坪)を耕すことから始まった。田んぼの持ち主は農家であり、それを借りる形である。近年は地方移住が喧伝され、農業をビジネスとして考える若者も増えてきていると聞くが、“田んぼ”は本当にむずかしいと茂吉さんは言う。
先祖代々受け継がれてきた農地を、人に貸したり借りたりするのは、外からは想像できない複雑な事情と手続きがからむ。「酒米プロジェクト」がスタートできたのは、その言い出しっぺが代々この土地で酒づくりを、さらに遡れば同じ農業を営んできた熊澤酒造だからだ。
これまでに酒米プロジェクトで復活させた田んぼは2町歩。1町歩=3000坪なので6000坪になる。そして、“残したい田んぼ”は30町歩!
熊澤酒造は10年計画、2030年をメドに田んぼの復活を目指している。プロジェクトに協力してくれる農家は少しずつ増え、一歩一歩と復活の途にある。水田に戻して挑戦しているのは酒米だ。この土地の気候に合った品種の見極めから取り組んでいる。
この土地の酒蔵だから救える田んぼがあるのだと知る。田んぼだけでなく畑も広がる。熊澤酒造はホップの栽培も畑を借りて始めている。だが当分、農業部門は田んぼで手一杯のようだ。
酒蔵とは仕事帰りの人が立ち寄って行く場所
6月の平日の夕方、熊澤酒造のカフェやギャラリーはにぎわっていた。築450年の古民家から香ばしいにおいがする。ビール醸造のあとに残るビール酵母を使ってつくったパンが並ぶベーカリー。ソーセージ工房も併設されている。隣接するカフェの階は大きな窓に面し、太い梁が組まれた階上は図書館のような落ち着いた静かな空間だった。派手さはない、宣伝もあまりされていない、茅ヶ崎の隠れ家的な場所である。
「祖母に聞いた話ですが」と、茂吉さんは昔の熊澤酒造の様子を教えてくれた。「昔は農作業を終えると、みな酒蔵に寄って酒を買っていったそうです。当時は酒瓶で売っているわけじゃないから瓶で量り売り。“貧乏とっくり”といって、白い陶器のとっくりに自分の家の名が書いてある、あれです。あれを持ってうちに来る。仕事終わりだから、ちょっと飲んじゃおうかとなって、毎晩ちょっとした宴会みたいになったそうです。そうやって酒蔵は昔から周辺の人たちが集まる場所だったんですね。今はタップルームとか言いますけれど」
コロナ禍で注目されるようになったグラウラーは、昔の「貧乏とっくり」が進化した水筒といえるだろう。いったん失われたものが、時を経て、形を変えて復活している、この不思議。日本酒もそうだ。今は特に海外での評価が高まり、生産量が伸びている。熊澤酒造ではちょうどコロナ禍前に導入した蒸溜器を稼動して、ジンをつくり、ウイスキーづくりにも挑戦している。
「私は日本酒づくりとビールづくり、ジンやウイスキーも別々の仕事とは考えていないんです。いろいろなことをやっていますけれど、酒蔵を続けていくために変化していく生命体の活動のように思っています」
酒蔵、醸造所、ブルワリー。いろいろな呼び方があるが、おいしい酒のあるところ、人が集まり、田畑が残り、文化が継承される。カフェで飲んだゴールデンエールは、とても豊かな味がした。
湘南ビール(熊澤酒造)
所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川7-10-7
https://www.kumazawa.jp