夏休みにスケールの大きな“何か”に触れたい!
「息子といっしょに海外へ出かけるのが恒例行事」とプロフィールに載せているのに、渡航が叶わない日々が続いている。いつでも出発できるよう、パスポートは先日更新したが、気楽に旅立てるのはもう少し先になりそうだ。ならば、異国並みの「おおーっ!」と盛り上がる国内のどこかへ……と思い、今夏は北アルプスの乗鞍岳を目指すことにした。
長野県松本市と、岐阜県高山市との境に位置する乗鞍岳は、最高峰の剣ヶ峰(3026m)をはじめ、2000mを超える23の山が連なる複合火山だ。古くから山岳信仰の場として大切にされてきたこの山は、約180種もの高山植物や特別天然記念物のライチョウといった、貴重な動植物の宝庫でもある。
乗鞍岳を選んだのは、3000m峰の中でもっとも登りやすいと言われているから。2700m地点の畳平までシャトルバスでアクセスできる上に、宿泊施設もある。鎌倉周辺のハイキングコースはあちこち歩いているが、本格的な登山は初めてなので、体をゆっくり高度に慣らしてから万全の体制で挑みたい。というのも、高山病がいかにきついかよく知っているからだ。インド北部のチベット文化圏、ラダックに陸路で向かっていたときのこと。5000m級の峠を何度か越えたあとに、激しい頭痛が襲ってきた。もうあんな思いはしたくないし、息子にもさせたくない。
乗鞍は雨だった。でも、夜には満点の星空が!
7月下旬のある日。早朝から電車とバスを乗り継いで長野県に入る。ぎらつく太陽にうんざりしていたのもつかの間、乗鞍高原に着く頃には土砂降りになっていた。ここでバスを乗り換えれば、目的地の畳平はもうすぐだ。でも、豪雨……。
雨の中、険しい山道をぐんぐん進むバス。森林限界を越えたのか、さっきまでは高い木々に囲まれていたのに、いつの間にか見晴らしがよくなっていることに気づく。どうやら雨は止んだみたいだ。手前には雪が残り、山の稜線がグラデーションになっているちょうど真ん中あたりに、虹がかかっている。息子は高地ならではの大パノラマを写真に収めたくて、車窓に張り付いている。
15時前、畳平に着いた。気温13度の表示に、「ずいぶん高いところまできたなあ」と実感する。さっそく今夜の宿にチェックインし、ひと休みしてから外に出てみたら、霧で真っ白。到着時はこんなじゃなかったのに!
視界ほぼゼロの中をうろうろしていたら、周囲の景色がおぼろげながら浮かび上がってきた。さらに10分ほど経つと、緑の山肌がはっきりと見え出した。これなら散策できそうだねと、バスターミナル裏手のお花畑と呼ばれる場所に行ってみる。高山植物を眺めながら木道を歩いていると、「ん?」一瞬、視界の隅を何かが横切ったような気がした。立ち止まってきょろきょろしていたら、そこには2羽のライチョウが。手を伸ばせばタッチできそうな距離に人間がいるのに、逃げる様子はない。か、かわいい……。
暗くなる前に一旦宿に戻り、辺りが闇に包まれてからふたたび外へ。今回、一泊することにしたのは、高地順応のためだけでなく、満点の星空にも出会いたかったから。だが、またしても濃霧だ。遠くの空には稲光も見える。「さすがに無理か」と言いつつ、なんとなくだらだらと居続けていたところ、雲の切れ間から星が顔を覗かせた。みるみるうちに無数の星で空が埋め尽くされていく。気がつけば、肉眼で天の川が確認できるほどの、壮大な星空が頭上に広がっていた。乗鞍初日の、完璧といっていいほどのフィナーレだった。
絶好の登山日和に乗鞍岳の尽きない魅力を堪能する
翌朝4時、アラーム音が鳴る。この日に備えて数日前から早寝早起きをしていたが、できればもう少し寝ていたい……。布団の誘惑を断ち切り、ご来光を望むために出かける。外はうっすらと明るい。当初は畳平から20分ほどの大黒岳に登って拝む予定だったものの、本命の剣ヶ峰登頂を控えているから、今頑張らなくても、ということで標高2716mバス停付近でスタンバイ。雲海から日の出が見えた瞬間、辺りが静かな興奮に包まれた。次第に明るくなる空をひとしきり眺めたあと、そのまま剣ヶ峰へ向かう人たちもちらほらいるが、私たちは布団に逆戻り。二度寝を堪能する。
朝食をしっかり食べて、8時ちょうどに畳平を発つ。心配していた天候も良好、高山病の症状もなし。遠くまで見渡せる気持ちのいい道を、カランコロンと熊鈴の音を鳴らしながら足取りも軽く進んでいく。右手に見えてきたのは不消ヶ池(きえずがいけ)。万年筆の青いインクみたいな水面には空が映り、雪渓が寄り添うように横たわる。もう少し歩いた先に見えてきたのは、もっとたくさん雪の残る乗鞍大雪渓。急斜面を滑空するスキーヤーの姿に、盛夏から冬にワープした不思議な気分になる。
歩くこと45分。剣ヶ峰の麓にある肩の小屋に着いた。順調にいけば、あと50分ほどで山頂に到達するはずだ。靴紐を結び直して、いざ乗鞍岳の最高峰へ!
……と意気込んだものの、一気に急坂になり思うように足が動かない。それに岩がゴロゴロしていて歩きにくい。目線が下がりすぎると滑るのでNGとわかっていても、足場が悪くてついつい下を向いてしまう。一歩一歩踏みしめてハアハア言いながら、「だいぶ登ってきたなあ」と振り返っても、大した距離を進んでいないのが辛い。一方、唯一トレッキングポールを使っている息子は順調だ。息は切れているけれど、へばっている様子はなく、自分のペースで黙々と登っている。
ときどき下の方からふわーっと雲がのぼってきて、周囲の何もかもを隠してしまうと、ひんやりとした空気が全身を包む。涼しくて心地よいなあと思っているうちに、あっという間に晴れる。それが何度か続いたのちにたどり着いたのが蚕玉岳(こだまだけ)。眼下には日本で2番目に高いところにある権現池が広がっている。雲より高い位置に真っ青な水をたたえたこの美しい池を見たら、なんだか元気が湧いてきた。頂上まであと50mを切った!
白く細かい砂の道が延びる蚕玉岳のなだらかな山頂を過ぎれば、あとは剣ヶ峰までひたすら登るのみ。ゴールが近いせいか、きついとか疲れたとか、そんなネガティブな感情は影を潜めて、頭の中はほぼ空っぽ。上へ上へと一生懸命足を動かす。鳥居がどんどん近づいてくるのが大いなる心の支えだ。
そしてついに、剣ヶ峰の山頂に立った。時間は10時を少し回った頃。休憩を長めに挟んだこともあり、約2時間かかった。登り切った同士を称える空気が頂上全体に満ちていて、皆とてもいい表情をしている。乗鞍本宮神社の奥社で参拝したら、リュックの中からポテトチップスを取り出す。「パンパンだ!」息子ははちきれんばかりのポテトチップスの袋を見て、げらげら笑っている。気圧の変化を、自分の目で確かめられてよかったね。
下山は、周囲の風景をゆっくり眺める余裕があるのがいい。ただ、さっきまで晴れていたのに、分厚い雲が次から次へとやってきて、往路ほどクリアには見えなかった。山では天候がめまぐるしく変化すると知っていたつもりでも、身を持って経験すると驚きしかない。
帰宅後、写真を見返してはすごかったね、と家族全員で山の余韻に浸っている時間が、また楽しい。登山って素晴らしい! ただ、事前にいろいろ調べて臨んだつもりでも、反省点はあった。食料は豊富に持っていっていたが、そのせいでリュックが結構重くなってしまった。あと、ウエアについては検討する必要がありそうだ。装備の過不足がわかっただけでも、実り多き登山デビューになったのかな、と思いながら、次はどの山に行こうかな、と山歩きのガイドブックをパラパラめくるのが、今いちばん面白い。
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