ヘンリー・デイヴィッド・ソローとは
アメリカ北東部、ボストン近郊にあるウォールデン湖(Walden pond)のほとりに自作の小屋を建て、自給自足的な生活を送ったヘンリー・デイヴィッド・ソロー。アメリカを代表する思想家、詩人、ナチュラリスト(博物学者)で、数々の名言を残している。
主著『ウォールデン 森の生活』は、世界中で翻訳されており、日本でも最新の訳で読みやすい小学館文庫版(今泉吉晴訳)のほか、定評のある岩波文庫版(飯田 実訳)、講談社学術文庫版(佐渡谷重信訳)と、大手出版社3社の文庫に収録されて、いずれもロングセラーだ。
〝森暮らしの隠遁者〟というイメージがあるソローだが、その思想はきわめてラディカル(根源的かつ過激)。湖畔で独居していた29歳の夏には、コンコード村の牢屋にぶち込まれてもいる。奴隷制とメキシコとの戦争に反対する意図で、州税を収めなかったためだった。
このあたりの経緯については、『ウォールデン 森の生活』と並ぶソローの代表作『市民の反抗』(岩波文庫)に詳しい。ちなみに、近年は「市民的不服従」(Civil Disobedience)と訳されるこのエッセイは、トルストイ、ガンジー、マーティン・ルーサー・キング牧師に多大なる影響を及ぼし、思想的支えとなった。大げさにいうならば、ソローは世界を変えた思想家だ、といえるかもしれない。
日本の漱石、アメリカのソロー
日本ソロー学会の顧問であり、NHKカルチャーラジオ講座『はじめてのソロー』の講師を務めた伊藤詔子・広島大学名誉教授に、150年以上読みつがれるソローの魅力を訊いた。
「『ウォールデン 森の生活』のなかで、ソローは“小屋”(cottage、hut) ではなく、“家”(house)という言葉を使っています。“小屋”というのは、本来の家のほかに遊びの時間をすごす山小屋のようなニュアンスですが、ソローが建てたのは千個の古レンガで基礎を作り、レンガ造りの暖炉に漆喰塗りの壁からなる本格的な“家”でした」
田舎暮らしの元祖であるかのように語られがちなソローだが、『森の生活』は、趣味や遊びではなく、生活の実践だった。
「資本主義経済が拡大し、自然が失われていく転換期に、“個”(自我)の確立をめざした書が『森の生活』でした。そして個の確立は、家を建てることと並行しています。
ソローはアメリカ文学の礎(いしずえ)を築いた作家であり、日本における夏目漱石に相当します」
個の確立とは、「いかに生きるか」という問いの答えだ。日本では夏目漱石などの作家・思想家たちが「個」(個人)について考え、数多の作品を残したが、おもしろいのはソローがアメリカ的な「個」を確立するために、「自然」をテコにしたということである。
独立してまもない当時のアメリカにあって、旧世界ヨーロッパにないものは、原初の息吹を残す「自然」だった。当時のヨーロッパでは森の多くが切り払われ、残っているのは人工的に管理された森林だけだった。
一方、ソローが生きた19世紀アメリカには、大自然そのままのウィルダネス(原生自然)が、残っていた。そうした自然の中に、絶対的な「自由」と「野生」を見いだし、〝自然の一部〟として「個」を考えたソローの作品は、ヨーロッパからの思想的独立宣言でもあったのだ。
ソローはハイカーでカヌーイストだった
ソローは、1日に最低でも4時間は歩いた。
また、自らカヌーを組んで川を旅するカヌーイストでもあった。(当時は道路が整備されていないので、河のある地域ではカヌーが主たる移動手段だった)
河や湖で魚を釣り、ときにメイン州の山に登り、森の中で野鳥の声に合わせてフルートを奏でた。
優秀な測量技師であり、大工であり、家業の鉛筆会社の営業マンであり、村で人気の講演者でもあった。
《私は、自分の生活に絶えず楽しみを見つけていましたから、社交や劇場などの外の世界に楽しみを見つける人に比べて楽でした。生活そのものが楽しみで、いつも新鮮でした。生活は、次々に場面が変わる、終わりなきドラマです。私たちが自力で暮らしを立て、それぞれに自ら学んだ最高のやり方で暮らしを操縦するなら、私たちは退屈に悩みはしないはずです》(今泉吉晴訳『ウォールデン 森の生活』小学館文庫より)
ソローが残した言葉は、「自然とともに日々をわくわくしながら生きていくためのヒント」ともいえる。
生誕200年を超え、いまなお読み継がれる世界的名著を、読みやすい新訳で読みなおしてみてはいかがだろうか?
ウォールデン湖畔での2年2か月の自給自足生活を記録した代表作。日本語訳の本はいくつかあるが、1854年の初版本を底本に自然への造詣が深い動物学者が現代の言葉で読みやすく訳した最新訳のこちらがおすすめ(注釈も充実)。この本は詳細な自然観察を通して「いかに生きるべきか」を思索した哲学の書でもある。冒頭章の「経済」(Economy)や「孤独」(Solitude)の章が有名だが、日本ソロー学会顧問・伊藤詔子先生のおすすめは、町と森が交錯する「音」(Sounds)の章。人間の文化的な営みと、自然の季節が奏で営みは、どちらも大きな音楽の1パートなのかもしれないと思わせられる一篇だ。
※参考文献/伊藤詔子『はじめてのソロー』(NHK出版) 写真提供/日本ソロー学会
(初出「BE-PAL」2017年8月号)
ヘンリー・D・ソロー著 今泉吉晴訳
『ウォールデン 森の生活』
「人は一週間に一日働けば生きていけます」という名言で知られるシンプルライフの名著。ヘンリー・D・ソローは、一八〇〇年代の半ば、ウォールデンの森の家で自然と共に二年二か月間過ごし、自然や人間への洞察に満ちた日記を記し、本書を編みました。邦訳のうち、小学館発行の動物学者・今泉吉晴氏の訳書は、山小屋歴三十年という氏の自然の側からの視点で、読みやすく瑞々しい文章に結実。文庫ではさらに注釈を加え、豊富な写真と地図とでソローの足跡を辿れます。産業化が進み始めた時代、どのようにソローが自然の中を歩き、思索を深めたのか。今も私たちに、「どう生きるか」を示唆してくれます。