ドナウ川下り【クロアチア編】
およそ5か月におよぶドナウ川カヤック旅の途中、当初は上陸する予定ではなかったのに、通りがかったらどうしても「行きたい」という衝動に駆られてしまった町がある。クロアチアのヴコヴァルだ。
太くて長くて、良くいえば雄大な、悪くいえば時に単調でもあるドナウ川をひたすら下っていると、右手に廃工場が現われた。穀物サイロだとか、鉄クズ工場だとか、営業してるんだかしてないんだか、わからないような工場を川岸に見つけるのは何ら珍しいことではない。けれどヴコヴァルが異質だったのは、その廃工場がとにかく大きかったこと。窓ガラスこそ割れているけれど、大きな建物が何棟も途切れずに、団地みたいに並んでいた。
ヴコヴァルの港での出来事
ヴコファルの港は、うっかりしていると見逃してしまうくらい入口が狭い。けれど堤防の中に入ってしまえばそれなりに広くて、釣り船がギッチリ並んで停泊していた。
「さて、私のカヤックを停められる隙間は見つかるだろうか」とキョロキョロしていると、イカツイ革ジャンを着たおじさんたちに呼び止められた。
おじさんは、どうやら釣りの名人らしく、カメラで取材を受けていた。どさくさに紛れて、私も取材されることに。
「ヴコヴォルの町はどうですか?」と。
たった今着いたところなので、なんとも答えようがない。人生初のテレビ取材。しかも海外。せっかくの機会なのに、おもしろいコメントなんか思いつきやしない。やっぱり普段テレビに映っている芸能人はプロなんだなあ。
革ジャンの人たちは、私が泊まるところまで心配してくれて、船で一泊させてくれることになった。こう見えて、中はキャンピングカーみたいにキッチン・ベッド・トイレ完備。だけどこのときもう何か月もドナウ川を下りながら毎晩テントで過ごしている私は、ベッドで寝るより寝袋で寝るほうが落ち着く体質になってしまった。船のデッキにヨガマットと寝袋を広げて、一晩を過ごした。
ヴコヴァルと戦争の歴史
クロアチアというと、アドリア海を望む中世の街並みが絵本みたいにきれいなことで有名な観光資源の豊かな国。だけど、ドナウ川から望むクロアチアには少し、違った表情があった。
クロアチアは、隣国セルビアとドナウ川を隔てて国境を接している。そして、そこには1991年から1995年にかけて続いたクロアチア紛争の歴史がある。それは東ヨーロッパ諸国を束ねていた旧ユーゴスラビアの分裂に伴い、クロアチアとセルビアに起こった政治的・民族的な対立。かなり近代の出来事だ。
なかでもヴコヴァルは激戦地となった町の一つで、「ヴコヴァルの虐殺」に代表されるような大きな被害を出し、クロアチア紛争が泥沼化していくきっかけにもなった。
「この足、偽物なんだ」と、港の船のおじさんがスネを叩くと、コンコンと硬い音が鳴った。地雷にやられたらしい。義足になっても、普通に歩いたり、義足を下にして足を組んだりするので、いわれないと気が付かなかった。
「ほら、ここ、撃たれたんだ」と言って銃創を見せてくれるおじさんが、クロアチア、セルビアには少なくない。
港でもらったクロアチア国旗の帽子。「セルビアに行ったら被っちゃダメだよ」と念を押された。両国にはまだ、とけきらないわだかまりが残っているらしい。
人の心と体にまだ傷が残っているように、ヴコヴァルの町には、戦争の跡がたくさん残っていた。それはクロアチア人にとっては、痛ましい戦争被害の跡であり、「それでも戦い抜いたのだ」という誇りでもあるらしい。
ヴコヴァルの町を象徴するのは、クロアチア国旗を掲げた貯水塔。紛争中、攻撃の標的にされボロボロになった国旗を、毎日誰かがてっぺんまで登って新しいものに交換したという。戦争中、何度壊されても旗を掲げ続けたのは、クロアチア人の不屈の精神を見せるため。そして今は、歴史を風化させないためのシンボルとして、あえて攻撃の痕跡を残したまま保存されている。
ヴコヴァルの廃工場
私がヴコヴァルに上陸する決め手になった廃工場は、港の5km上流にあって、ボロヴォと呼ばれる地域にあった。貨物船は停まっていないし、建物はボロボロ。明らかに廃工場だったけれど、とにかく規模が大きかった。一体どういう事情で閉鎖に追い込まれ、人がたくさん生活している町の近くで今も放置されているのか。
調べてみると、もともとは靴工場だったらしい。稼働していたのは、旧ユーゴスラビアの社会主義の時代。セルビアとクロアチアを含む6か国が一つの国を形成していた時代だ。ボロヴォは、ドナウ川の西側、現在のクロアチアに位置しながら、民族的には地域の人口の大半をセルビア人が占めるセルビア人地域だった。もちろん工場もセルビア人が中心に働くセルビア系企業。
1991年、クロアチアとスロベニアの独立宣言をきっかけに旧ユーゴスラビアの分裂が加速。独立に向けて動き出すクロアチアと、それに対立するセルビア人。
当時はセルビア人がたくさん住んでいたボロヴォの町も、クロアチアが完全な独立を果たすと、すっかり民族的なバランスが変わってしまって、クロアチア人に傾いた。
最盛期は2万3千人の従業員が働く大規模な靴工場は、クロアチア紛争による建物への大きな損傷に加え、民族的な人口のシフトにも直面。再建の道のりは厳しく、廃工場になった。
現在は、複数ある建物のうち1棟だけを稼働させて、500名ほどの従業員で靴作りを続けているが、敷地の大部分は廃墟化したまま放置されている。
川を下って見えてきたドナウ川流域のリアル
ドナウ川を下っていると、大きなクルーズ船とたくさんすれ違う。ドイツやオーストリアなどから観光客を乗せたクルーズ船で、バカンスを楽しむ家族連れや、退職後の余暇を楽しむ人たちで賑わっている。
そう、ドナウ川といえば、クルーズ旅行。きれいな港町を巡る、楽しい観光旅行。私も、同じ景色をカヤックで辿っている。だけどそこに隠れていたのは、ドナウ川に残る痛ましい戦争の歴史。それは、ただ一つの国の問題ではない。ドナウ川を通じて繋がっている国々とヨーロッパ全土の歴史。
私はもっと、知らなければならないと思った。川を下りながら、ここで起こったこと、ここに生きていた人たちのことを。堅苦しい言葉は使いたくないけれど、川を旅する人として、それは一種の責任でもあるような気がした。