ちょうど刺激を欲していたころ
それは、およそ2,600kmに及ぶ長いドナウ川の旅で、漠然とした退屈感に苛まれていたブルガリアでのある日の出来事。
退屈だったのは、ドナウ川が長すぎるからではなくて、もっと別の理由があった。それは、ブルガリアに入国してすぐ、ヴィディンという町のはずれにある、タバコとお酒の吹き溜まりみたいなカヤッククラブで、とくに何をするわけでもなく数日ダラダラ過ごしたあと。「時間ならあるから」と時間を浪費する自分のだらし無さが、どういうわけだか急に悲しくなって。それで、毎日休まず漕ぐことを決めた。
これは今回の旅では新たな試みで、今まではスケジュールを立てることも無ければ、事前に天気予報を見ることもほとんどなかった。朝起きて、天気が良くて気分も良ければ漕ぎ出す。そんなことを何ヶ月も繰り返していたから、スケジュール通りに漕ぐということは、やってみると想像以上にストレスだった。
毎晩、夜寝る前に天気予報を確認して、明日どこまで漕ぐかを決めて。そして、その計画通りに漕ぐという毎日は、とても退屈だった。計画を立てたおかげで、少ない時間で効率よくあちこちを観光してまわれるようになったけれど、なんだかスタンプラリーをさせられているみたいで、私にはまったく楽しくなかった。
何か、劇的な変化を私は旅のなかに欲していた。
ヨットとの出会い
あの日は、午後になって急に風が強くなってきて、ルゼという町の港に逃げ込んだ。くっそー、と急ぎ足で漕いで大変だったのだけど、風が吹いたのはラッキーだったと思う。本当は、人が来ないような川岸に適当に上陸して静かにキャンプをする予定だったから、風が出てこなかったらきっとその港は通りすぎていた。
私が港で見たもの。それは、今まさにヨットのマストを立てようと作業している2人組。
直感的に、「おもしろい人を見つけた」とワクワクして、話しかけてみた。彼らもドナウ川を旅しているという。川を旅していると低い橋が出てくるから、今までマストは畳んでエンジンで走行していたけれど、そろそろ河口も近くなって低い橋も無くなるので、ここでマストを立てることにしたらしい。
町の酒屋でビールを買い込んでヨットにお邪魔して、彼らの旅について詳しい話を聞かせてもらうことにした。
ティム船長とヨットの出会い
ヨットで旅する2人組の男の名前は、ティムとヤン。2人ともベルギー出身で、いくつかの川を経由してドナウ川までやってきた。このまま黒海に出て、ヨーロッパを海岸線沿いにグルっと航海して、またベルギーに戻るという旅の計画らしい。
「いつかドナウを旅してみたいと、ずっと思っていたんだ。いざこうして黒海が近づいてくると、感慨深いものがあるね」とティム船長。だけどどうして、ヨットで旅することにしたんだろう?
尋ねてみると、ティム船長とヨットの出会いはかなり特殊な偶然らしかった。
若かりしころの船長は、馬の世話をしていたらしい。だけど、30歳手前になって他の動物とも仕事がしてみたくなった船長は、アラスカに渡り、犬ぞりレースに出ることになった。それはアンカレッジからベーリング海峡を目指す世界最長の犬ぞりレースで、ベルギーからの参加者は当時珍しく「ベルギーの弾丸」として、地元新聞記事に紹介されたらしい。結果はビリだったが、怪我や遭難をしたりすることもなく無事にゴールした。
悲劇は、レースのあとに起こった。完走したら、バンを乗り回してカナダ、アメリカ、南米まで行こうと計画していたのだが、レース期間中に誰もエンジンをかけなかった車は、アラスカの寒さに耐えかねて故障。
このままベルギーまで飛行機で飛んで帰るんじゃつまらない。何か、クリエイティブな方法で帰国できないものか。そしてインターネット掲示板をさまよっていると、偶然、トリニダード・トバコの港町に浮かんでいるヨットの船長が、ヨーロッパまで航海するのに船員を募集しているのを見つけた。
当時、ヨットの経験はまったくなかったティムだが、乗船させてもらえることになり、ヨーロッパまで航海する道すがら、船長の手伝いをしてヨットの操作を覚えたという。
以来、ティムはタンカー船の乗組員になったり、運河に座礁した船を救出する仕事をしたり、すっかり船の世界にハマってしまったらしい。
このヨット、6,000ユーロ
ところで彼らが乗っているこのヨット、いくらで買ったのかというと、なんと驚愕の6,000ユーロ。記録的な円安を叩いている今のレートで換算しても、90万円でお釣りが来る。
1974年の古い船で、購入当初は木製のデッキがコケだらけだったらしい。見た人みんなが「そのデッキは張り替えなくちゃ、もうどうしようもない」と言うなか、一生懸命ブラシでこすって掃除して、今の姿になったらしい。
ヨットという乗り物は、しょっちゅう修理やメンテナンスをしながら乗るものらしく、加えて1974年製という古さも相まって、2人は旅をしている最中もずーっと船を直しながら移動しているという。
「船は安かったけど、修理するコストと手間を考えると、安い遊びとはいえないね」そう言いながらデッキの撥水コートを塗ったり、電気系統を直したり、エンジンのメンテナンスをしたりと、とにかく毎日忙しない。私はヨットのことはまったくわからないけれど、少なくともDIYが苦痛に感じる人には乗れない乗り物だ。
ティム船長とアマゾン川
彼らとヨット旅の馴れ初めを聞いたところで、今度は私が自己紹介する番。「数年前にミシシッピ川を漕いで、そして今はドナウを漕いでいて…」と伝えると、ティム船長はニヤッと笑って、「じゃあ次はアマゾン川だね」と言った。彼の言う通り、私が目標にしている次の川は、アマゾン川だ。
そしてなんと偶然にも、ティムはアマゾン川を源流地域から河口までモーターボートで旅したことがあるらしい。
「もともと川を下るつもりじゃなかったんだ。南米を普通に飛行機で移動でする予定だった。だけど地元の人が、川があるんだから飛ぶ必要ないじゃないかって、アマゾン川を指さしたんだ」
たったそれだけのきっかけで、ティムはアマゾン川を下り切ってしまったらしい。なんて破天荒な男だろう。それよりも、アマゾン川を旅したことがある人と、こうして偶然出会う確率って、どれくらいなんだろう。
ルゼの港で彼らを見たときに、ひらいめいた直感は正しかった。ドナウ川の旅人で、彼らはダントツに、おもしろい。
ドナウ川で退屈感に苛まれていたのが一瞬で、楽しさに変わった。
私も、少しだけ彼らと旅をしてみたい。そう伝えると、2人はヨットに乗ることを快諾してくれた。まさかその「少しだけ」が3週間もの居候生活になるとは思いもせずに…。