登山家の山野井泰史さんを追ったドキュメンタリー映画『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版』が公開されます。監督の武石浩明さんは大学時代は山岳部に所属、ヒマラヤ登山経験もあるジャーナリスト。知られざる山野井さんの素顔を聞きました。
――山野井さんと奥さまの妙子さんは登山家同士というだけではない、強い結びつきを感じさせますよね?
「出会うべくして出会ったのかなと。例えば山野井さんを心配して山に登らないでというような人なら、選んでないと思うんです。妙子さんは基本的に、全部を応援してくれますから。山野井さんはなんど挫折しても立ち上がり、でも楽しみながら生きている。それはあの奥さんがいたからというのもあるだろうなと」
――妙子さんの異様なまでの落ち着きが、画面から伝わるようでしたが?
「どっしりしていて慌てないんですよね。本人も『自分には恐怖心がない』と言ってました。映画の中でも一度だけ怖かったこととして、『ギャチュンカン(エベレストとチョ・オユーの間にある山。標高7,952m)で自分を支えるロープが切れそうだったときだけは怖かった』というエピソードがあります。山野井さんは『そういう人は危ない』と言います。『妙子は俺と出会わなかったら、とうの昔に死んでる』って。
あの夫婦は、静と動が激しすぎるよう。山野井さんは普段『冴えない』と自分で言ってますが(笑)、妙子さんは毎朝3時半とかに起きて畑仕事をしたり、いろんなことをしています。山野井さんはあまり畑仕事は好きではなく手伝っているだけで、普段はたくさん寝ているそうです」
――似たもの夫婦か、逆なのでしょうか?
「山野井さんのお父さんに言わせると〝似た者夫婦”と。山野井さんは妙子さんと出会うまでは部屋に寝袋とマットしかなくて。枕もロープだったと言っていました。食べものにも興味がないみたいで、だから結婚前はよく風邪をひいていたそうです。
でも妙子さんと住むようになってからは風邪をひかなくなったと。その代わりに野菜ばかりを食べさせられ『俺はキリギリスじゃねえ』と言ったらしいです(笑)。妙子さんは田舎育ちで、野菜やキノコをとってきていろいろと料理を工夫していて。僕もごちそうになったことがあるのですが、とてもおいしいんですよ」
――ギャチュンカンには妙子さんと登ったんですよね?
「山野井さんは自分がソロで行くときはいつも、妙子さんのためにもうひとり誘って。それでもうちょっと簡単なルートを登ってもらうそうです。それでお互い別々に頑張ろう。楽しもう!とするパターンが多い。そういうとき、誰を誘ってどういうルートを登るか?そうした計画はぜ~んぶ山野井さんが考えています。山以外のことは何も考えない。そういう生き方って、普通は出来ないですよね。
山で生きていこうとしたら多くの人たちはガイドをやります。でもお客さんを連れていくとストレスもあるし、決して自分が登りたい山登りばかりではなくなりますよね。やりたくないことを、やらなくちゃいけなくなる。あとは登山用品店で働くとかね。やりたくないことはやらない、そういうことはなかなかできないんじゃないかと思います」
――それはもう、アーティストですよね?
「ヴォイテク・クルティカなんてほとんどアーティストですよ。だって彼の書いた本のタイトルは『アート・オブ・フリーダム(稀代のクライマー、ヴォイテク・クルティカの登攀と人生)』(山と渓谷社)ですから!芸術とか、哲学みたい。でも山野井さんは純粋に『なんか登りたいところないかな~?』とず~っと探している感じです。別に厳しいところばかりじゃなくて、普通のハイキングみたいな登山もやってますし、釣りも好きだし」
――とにかく山が好きだと。
「他のことをやってないですから。あれだけやって生きている。アルパインだけじゃなくて今年はビッグウォールをやろうとか、毎年毎年目標を設定して。手足で10本の指を失ってますし、年齢を重ねてだんだんそのレベルは下がっているかもしれません。
でも指がなくなったいまの状況で、どれだけ難しいものに挑戦できるかを考えている。指がなくてもクラック(崖のひび割れ)なら、バランスと痛さに耐えればいいじゃないですか。常に何かしら、自分の限界へ挑戦している。そこも素晴らしいですよね。指がなくなって止めようかと思ったけどやっぱり止められなくて、そのなかで、自分がいちばん挑戦できるものは何かを考えてターゲットを選んでいく。その選ぶ対象のセンスがスゴくいい」
――自分が憧れるものになろうと命を懸けて、でも楽しみながら極限まで努力する。山野井さんの生きる姿勢に心を打たれました。
「これまで登山を扱ったドキュメンタリーは登山隊があって隊長がいて、誰が頂上にアタックするのか…みたいなものが多かった気がします。でも世界的に見ると、そういう時代は終わっているんですよね。今はスタイルが大事で。より困難なところを少人数で、酸素や道具を使わずシンプルに登る。山野井さんの場合はそうした登り方、そのスタイルと登山の対象がピオレドールでは評価されたわけです。
――山野井さんは、時代の先を行っていたんですね?
「ものすごく先を。そういう人が他にも何人かいましたけど、みんな死んでしまったので」
――登山をやらない人間にとって、いくらケタ外れの充実感や達成感を得られるとしても、それを味わうためなら死んでもいいというのはどうしても理解できないのですが?
「いや、死ぬとは誰も思ってないと思う。映画の中で“ソロの魔力”という言葉が出てきますが、そういうものもあるんじゃないでしょうか。突き詰めていくと、自分だけで達成したい! と思うようになるというか。危ない麻薬みたいなもので、アドレナリンの出方もちょっと違うんでしょうね。どれだけドキドキしても、誰も守ってくれないですから。
山野井さんも、ソロで登っていて本当に怖いときは、自分の安全を確保してくれる人が下にいるわけじゃないけど、ロープを垂らすと言ってました。ただ空中にロープが垂れているだけでも、その方が安心できるって」
――やっぱり怖いんですね。
「すっごく恐いと思いますよ」
――同じように登山をしていた身近な人が何人も亡くなっているわけですよね。それがトラウマになって山を登るのが恐くなる、ということはないのでしょうか?
「だから、より慎重になるのだと思います。恐いからやらない、ではなくて。山野井さんは、ソロをやっていて死んでしまう人はわかると言っていました。どんどんのめりこんで、危ないな…という雰囲気が。僕自身も登山をやりますが、そういうところまでは踏み込めません。出来ないですよ。そんな、怖くて」
――では監督ご自身は、登山のなにが楽しいですか?
「私はもう、全部が好きです。ヒマラヤにも5回行きました、昔のことですけど。今は普通に登るのも好きだし、トレイルランも好きだし、沢登りも好きです。大好き。それぞれの形態で、面白さが違います。トレイルランなどで、体力の限界!とまではいかないですけど、すっごくがんばるのも好き。それにキレイな景色を見るのも、ちゃんと安全を確保してもらってクライミングして、アドレナリンが出るのも好きなんですよね」
作品データ
映画『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版』(配給:KADOKAWA)
●監督:武石浩明
●ナレーション:岡田准一
●11月25日~角川シネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国公開
(c)TBSテレビ
取材・文/浅見祥子