人生の大きな転機は、島暮らしが整いはじめた頃に……
「まるふ農園」と書かれた軽トラに乗り、声がかかれば、島内どこへでも出向き、様々なオーダーに応える人が、ここ弓削島(愛媛県上島町)にいる。古川優哉さん(38歳)だ。
大工や左官作業、木の伐採や剪定、農作業に草刈り、弓削商船高等専門学校の夜警等々。もはや「なんでも屋」としか言い表しようがない。仕事は次から次へとやって来て、のどかな空気の島とは裏腹に、優哉さんのスケジュールはみっちりと埋まっている。
しかし、11年前の移住当初から「なんでも屋」だったわけではない。そもそも、弓削島に移住したのも、自ら選んだのではなっかた。弓削島が属する愛媛県上島町の地域おこし協力隊にパートナーが着任した時期と、優哉さんが東京ではないどこかを求めてた時期が重なり、ふらりとやって来たのだ。
島での生計の立て方も、はじめの数年は試行錯誤だった。が、無肥料無農薬で野菜を育てる農家になり、その野菜を使ったカフェと農家民宿をパートナーと営む形に落ち着いた。古民家を自宅兼民宿に、倉庫をカフェにと、本やネットを見よう見まねで、自力でリノベーションにも挑戦した。
そんな頃、大きな出来事が起こってしまう。農機具で利き手である右手の指を切り、約1年間入院するという大ケガをしてしまったのだ。優哉さんの右手の指は、今も、自由には動かない。日常生活や作業は、難なくこなせるようになったものの、専業農家として続けるには、どうしても難しくなってしまった。パートナーと目指す方向性もずれて行き、結果、二人はお別れをするコトになる。
求め、求められる場所
てっきり、二人ともそれぞれに島を出るのかと思っていたら、パートナーは島外へ越したものの、優哉さんは、弓削島に残るという選択をしたのだ。自分が思い入れがあって来た島ではなかったのに。そして、第三者としては、利き手の自由が利かなければ、島外の方が仕事も多いから良いのではないかと安直なコトを思ってしまった。けれど、優哉さんは、カラッとした笑顔で答える。
「弓削島を出て行く理由がなかったんだよね」と。
「どうしても弓削島じゃなきゃダメだというわけじゃない。けど、この島の人たちのコトが好きだし、島の人も自分のコトを求めてくれる。だから、それを振り切ってまで出て行く理由が何もないだけ」。
20代の頃は、東京の某書店で働いていた優哉さん。世の中と自分があまりにも違い過ぎる感覚があり「自分の居場所がない」と感じていたという。
けれど、弓削島に来て、それまで気がつかなかった"人とコミュニケーションをとったり、農業をするコトが好きな自分"を発見したのだった。
自分の居場所の作り方
移住当初から、優哉さんが良くしてもらっているという「民宿中塚」の女将・いつ子さんは、こう語る。
「優哉さんが、カフェ用に古民家を改装したのを知っているし、彼がどれだけの技術を持っているかわかるから、安心して仕事を頼めるの」と。
そして、
「優哉さんは、移住して来た当初から、島内で少しでも人影を見かけると、どんなに遠くても挨拶する丁寧な人だって有名なのよ」とも。
何もせずに、自分の居場所を見つけたわけじゃない。
挨拶という日常の小さなコトからはじまり、古民家のリノベーション、農業等、コツコツと信頼を積み上げてきたからこそ。また、その姿を島の人たちが見ていたからこそ、優哉さんはこの島で求められる人になったのだ。
ネットの発達等によって"速さ"や"時短"が良きモノと感じられてしまう昨今、「自分の居場所がない」と、感じる人は増えているのではないだろうか?けれど、「出て行く理由がないほどの心地いい自分の居場所」を、探すのも作るのも、昔から変わるコトなく、小さなコトの積み重ねの先に現れるのかもしれない。