先鋭的クライミング、写真、米作り――さまざまなチャレンジを続ける船尾修さんが語る「冒険的人生」
探検家・関野吉晴さんが、時代に風穴を開けるような「現代の冒険者たち」に会いに行き、徹底的に話を訊き、現代における冒険の存在意義を問い直す──BE-PAL5月号掲載の連載第22回目は、クライミング、写真、米作りなど常に新しいことに挑戦し続けている船尾修さんです。
なぜ新しいことにチャレンジするのか、冒険的精神の原点にあるものは何か。船尾さんの原動力に関野さんが迫ります。その対談の一部をご紹介します。
関野吉晴/せきの・よしはる
1949年東京都生まれ。探検家、医師、武蔵野美術大学名誉教授(文化人類学)。一橋大学在学中に探検部を創設し、アマゾン川源流などでの長期滞在、「グレートジャーニー」、日本列島にやってきた人びとのルートを辿る「新グレートジャーニー」などの探検を行なう。
船尾修/ふなお・おさむ
1960年兵庫県生まれ。30代前半まで先鋭的なクライミングに傾倒。その後写真家を志し、98年にデビュー作『アフリカ 豊饒と混沌の大陸(全2巻)』(山と溪谷社)を出版。2023年、『満洲国の近代建築遺産』(集広舎)で第42回土門拳賞受賞。2001年に移住した大分県国東半島では米作りも行なっている。
未知に惹かれるのはクライマーだったから
関野 船尾さんは、写真でも新しいことにどんどんチャレンジしていますよね。ピグミー、エチオピア南部のハマル、カラコルム山脈とインダス川流域、国東半島の民俗と宗教、フィリピン残留日本人、満洲の建築遺構などなど、テーマはじつに多彩です。取材テーマはどうやって決めるのですか?
船尾 たとえばフィリピン残留日本人の場合、もともとフィリピンには米作りの延長で棚田を撮りに行ったんです。ルソン島北部にある世界遺産にも登録されているコルディリェーラの棚田群。1000枚以上連なった棚田です。その取材をしているとき、じつはその周辺に日本人の血を引いた人がたくさん暮らしていることを現地の人に教えられました。かつてフィリピンがアメリカの植民地だったころに渡った日本人移民の子孫だということでした。
彼らは、太平洋戦争が始まって日本が占領すると日本人から見てもアメリカ人から見ても中途半端な存在になってしまい、戦中・戦後にわたって苦難を味わい、日本人の血が流れていることを知られないようにして隠れて生きてきたのだそうです。その存在が少しずつ知られるようになったのは、ようやく1980年を過ぎてからのことだといいます。教科書で教わらなかった歴史を知った僕は、もっと知りたくて取材を始めました。
関野 もともとは別の目的で取材や旅をしていたのに、途中で「出会い」があり、そっちに深入りして通うようになったのですね。
船尾 自分が知らない世界に出会ったとき、もっと知りたい、見てみたいという気持ちに衝き動かされるのは、僕がクライマーだったことが大きく影響している気がします。
関野 船尾さんの登山の経験は、ザンスカール河(インダス川支流。冬の3~4週間だけ完全に凍結して通行可能となる)の撮影などで技術や知識として活かされているのだと思っていましたが、それよりも未踏を目指す冒険的精神が活かされているのですね。
船尾 クライミングに打ち込んでいたころ、未踏の冬の壁を目指したのは、誰もやったことがないからであり、記録もなかったからでした。誰も見たことのない世界のドアをちょっと開けてみたいという志向は今も自分の中に残っている財産です。
この続きは、発売中のBE-PAL5月号に掲載!
公式YouTubeで対談の一部を配信中!
以下の動画で、誌面に掲載しきれなかったこぼれ話をお楽しみください。