東京23区内、特に山手線の内側はビル街や飲食店街、住宅街ばかり。そう思っている人が多いかもしれません。でも、目を凝らせば東京都心にも「山」はあります。そんな東京の山の世界を、日本で唯一のプロハイカーである斉藤正史さんが案内します。第4座目は、港区の芝公園にある「丸山」(芝丸山古墳)をめぐります。
第4座目「丸山」
今回登るのは、芝公園にある丸山です。実は、丸山は全長106メートル前後という都内で最大規模の前方後円墳です。標高は16m。残念ながら、昔から原形はかなり崩されていて、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっているそうです。
明治31(1898)年に、日本考古学の先駆者である坪井正五郎博士によって調査されたそうですが、主体部(埋葬施設)はなくなっていて、遺体や副葬品なども不明。形態などから5世紀代の築造とみられているそうです。きっと当時有名だった族長の墓だったのでしょう。古墳の南東側に下れば、「丸山貝塚」があるそうです。このように小高くなっている古墳が、いつしか「山」や「丘」として認識されるようになった場所は、他にもあるのかもしれません。
見どころ盛りだくさんな丸山登山
さっそく、丸山山頂を目指して出発です。まずは、いつものようにGoogle Mapでルートを考えてみました。目的地の芝公園そのものが自然豊かなので、わざわざ遠回りして山の麓の街をうろうろする必要もありません。今回は、都営三田線芝公園駅登山口からのシンプルなルートを選択しました。駅登山口を出たらUターンするようにして園内に進みます。
入り口には、芝公園の案内があります。そこから園内に進んでいくと、いくつもの分岐点があります。僕はシンプルなルートを選びましたが、春の梅、秋の紅葉など季節によって見どころの植物も異なるようなので、そのときどきでいろいろなルートが楽しめそうです。それにしても暑い。まぶしい。木陰が嬉しいです。
ゆるやかな石段が現れました。いよいよ登りが始まります。おそらく、ここはもう古墳なのでしょう。ずんずん進んでいくと、神社がありました。ルートは若干それますが、礼を失してはいけないと思い、ちょっとOFF TRAIL。鳥居をくぐって、手を合わせます。
この神社は「円山随身稲荷大明神」といい、創建は江戸時代。増上寺移転の際に桑名から運ばれた「阿弥陀如来像」にお供してきた神様なので「随身稲荷」と名づけられたそうです。その後、芝丸山古墳に祀られたのですが、この芝丸山古墳、ちょうど増上寺の裏鬼門に当たるそうです。移動後も、ご本尊の阿弥陀如来を守り続けているのでしょう。それにしても、こんな都会の公園の中、丸山の中腹に神社があるとは思いもしませんでした。
神社を後にし、脇にある道を一気に登ります。西頂部分には「虎」がいました。虎?
これは、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」などの名言を残した大野伴睦(おおのばんぼく)さんの句碑でした。彼は、自由民主党副総裁も勤めた政治家です。句碑は、調理師法施工5周年にあたる昭和38(1963)年6月に、大野伴睦さんが長年調理師会の名誉会長として尽力した労に感謝するため建てられたそうです。ところで、どうして「虎」だったのでしょうか。
その句碑を右に曲がると、奥の方に後円墳の広場が見てきました。ここにも何かがあります。地場丸山古墳の発掘者・坪井正五郎の標識の石だそうです。
続いて現れたのは「伊能忠敬測地遺功表」。江戸時代の偉人・伊能忠敬が日本地図を作成するため測量の旅に出かける際、測量の原点とした場所がこの近くにあったそう。そのため、この辺りで最も高い古墳のてっぺんに「伊能忠敬測地遺功表」として記念碑を建てたようです。明治22(1889)年に高さ8.58mの青銅製で角柱型のものが設置されましたが、戦災で失われ、昭和40(1965)年に現在のものが再建されたそうです。
情報量が多すぎたので混乱しかけましたが、「伊能忠敬測地遺功表」が周辺で一番高い位置に建っているということは、ここが山頂なのでしょうか。なのでしょう!
わずか数百mの登山でしたが、見どころの多い山でした。
まさか、プロハイカーの僕が、江戸時代のロングトレイルハイカー?である伊能忠敬の足跡にめぐり会えるとは。これも何かの運命なのかもしれません。
次回は、港区丸山ノスタルジー一駅縦走路です。
なお、今回紹介したルートを登った様子は、動画でご覧いただけます。