ナチスは「良いこと」もしたのか? 話題の本を読んでアウトバーンとフォルクスワーゲンで検証してみた
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    2023.09.22

    ナチスは「良いこと」もしたのか? 話題の本を読んでアウトバーンとフォルクスワーゲンで検証してみた

    フォルクスワーゲンとシュビムワーゲン

    日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員(BE-PAL選出)の金子浩久が、いま話題の本『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んで考えました。アウトバーン、フォルクスワーゲン、ポルシェ博士…。クルマの歴史をひもとくならば、ナチス時代のドイツは非常に重要な貢献をしているように思われます。巷間よく耳にするあの「伝説」は、はたして真実なのでしょうか?

    ナチス関連の「伝説」をドイツ近現代史研究者が検証

    検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?

     岩波ブックレットの『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』という本が売れています。

     それを聞いて、新宿の紀伊國屋書店と高田馬場の芳林堂書店に買いに行ったら、2軒とも売り切れでした。これはスゴい。

     202375日に発売され、912日現在のアマゾンでも「ヨーロッパ史一般の本」カテゴリの1位を続けています。発売後1週間で3刷され、5万部以上の売上げだそうです。

     評判は、清澄白河の『Books&Cafe ドレッドノート』でも聞いていました。同店は店内で各種のトークショーやコンサート、ワークショップなどを積極的に行なっていて、この本の著者、小野寺拓也氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授)と田野大輔氏(甲南大学文学部教授)のふたりによるトークショーが盛況だったと店主から聞いていたのです。

     ちなみに、筆者も昨年のトークショーと今年の出版記念サイン会を『ドレッドノート』で開催してもらったことがあり、ここが意欲的な姿勢を示す新しいスタイルの書店であることは体感していたので、ふたりのトークショーの盛況ぶりも十分に想像できました。

     同書はタイトル通りの内容で、ドイツ近現代史を研究している学者ふたりが、研究成果を踏まえて、インターネット内に多く散見される「ナチスは良いこともした」という言説を検証したものです。

    ナチスは「良いこと」もしたのか?

     果たして、ナチスは“良いこと”もしたのか?

     検証の成果は本の中で詳しく述べられているので、ぜひ購入して読んでもらいたいです。そして、筆者がなぜこの本を取り上げるのかといえば、“良いこと”の例としてクルマに関するものがふたつ挙げられていたからでした。「アウトバーン」の建設と「フォルクスワーゲン」の開発です。本書の指摘を待たなくても、これまでもこのふたつはナチスとセットでしばしば語られてきました。

     ドイツで実際に運転してみたことのある人ならば、アウトバーンの素晴らしさは説明の必要もないでしょう。片側4車線、5車線は当たり前。見通しが良くて余裕のある幅員やカーブの設計、合理的な規制、充実した施設など。道路のハードウェアだけでなく、工事などで速度や車線などを規制する場合にも、役所側の都合だけではなくドライバーの立場に立って行なわれている点に感心させられます。

     例えば、速度無制限区間からいきなり“60km/hに下げよ”と突き放してしまうのではなく、最初に「130km/hに下げよ」と出し、しばらく走ったところで今度は「最高速100km/h」、次に「80km/h」、そして「60km/h」といった具合に、ドライバーたちと丁寧にコミュニケーションを取ろうとしながら規制しています。アウトバーンは速度無制限区間に代表されるハードウェアの優秀性だけでなく、それを管理運営しているソフトウェアも高く評価されるべきものだと筆者は考えています。

     もっとも、こうした高速道路網のあり方はドイツに限ったことではなく、多くの欧米その他の諸国で行われています。アウトバーンをはじめとする欧米の高速道路と日本のそれとの最も大きな違いは、漫然と運転している人がいないことです。周囲のクルマの流れを常に意識して、自分もその1台であることを強く自覚しながら走っています。一例を挙げれば、追い越しが終わっても追い越し車線に止まって走り続けるようなクルマが1台もいません。いわゆる“あおり運転”の原因となるような走り方をしているクルマはおらず、追い越しが終わったら速やかに走行車線に戻っています。個人の集合体が社会であるように、クルマの運転においても“個”が確立されているのです。

     初めてアウトバーンを走った時に、“それは、欧米と日本のモータリゼーションの歴史の長さの違いによるのだろう”と考えていました。しかし、その後に世界のあちこちでハンドルを握りましたが、日本よりも後からモータリゼーションが起きた多くの国々でも、高速道路での走り方は欧米のようでしたから、歴史の長さがすべてを解決するわけではないようですね。ちなみに、高速道路上で原理原則やルールを守らず、漫然と運転しているドライバーが多かったのは、日本以外では中国の地方だけでした。

    ➡参考記事「マクラーレン650Sでシルクロードへ!西安から敦煌までスーパーカーで旅した

    アウトバーン建設とナチス

     そのアウトバーンについて、本書では以下のように記されています。

    《ナチ政権が打ち出した雇用創出策のうち、大きな目玉事業とされたのがアウトバーンの建設だが、これもヒトラーの発案によるものではなく、ヴァイマール時代に民間組織によって構想され、一部で実現していた計画を継承したものである。ヒトラーはそれを総延長7000キロメートルに及ぶ全国路線網の建設計画へと拡大して、その建設を失業撲滅に邁進する国家の一大事業として大々的に宣伝したのである》(小野寺拓也・田野大輔 著『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』より)

     この「民間組織」とは、Hafraba(ハフラーバ/ハンザ都市ーフランクフルト・アム・マインーバーゼル間自動車道路準備協会)のことでしょう。

    ナチズムとドイツ自動車工業

    この協会は1926年に結成され、以来自動車専用道路建設を各方面に呼びかけていた。しかしながらごく一部が着工されただけで、資金難により頓挫してしまっていた。ヒトラーは同協会々長ウィリー・ホーフと1933年4月6日に会談し、アウトバーン建設計画を国家が引き継ぎ、さらに全ドイツ規模のトータルプランに完成したものである》(西牟田祐二 著『ナチズムとドイツ自動車工業』より)

     アウトバーンはナチスが始めたものでなく、ワイマール時代(1918年~1933年)にドイツの不況を克服する起爆剤のひとつとして着手されたものでした。

    戦争によりアウトバーン建設工事は滞った

     そして、193991日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まります。

    ポルシェの生涯 その時代とクルマ

    兵役義務のある男たちは召集を受けて労働者は減少し、建造資材も国防軍にまわされ、ガソリンも配給制になった。アウトバーンの最高速度も100km/hに制限されるなど、すべてが戦時体制に移行し、アウトバーン建設工事は次第に縮小していく。1940年12月3日に、フリッツ・トット道路総監はほぼ全面的に工事の停止を命じた。この時点でアウトバーンの総延長は3860kmに達していた。1940年以降、アウトバーン建設の労働力は、もっぱら強制収容所の囚人や一般国民を対象とした強制労働に取って代わられるようになり、その建設完工距離は極端に減少し、重要地域の未完成部分の完工が急がれたに止まった》(三石善吉 著『ポルシェの生涯 その時代とクルマ』より)

     1941年末までに90km42年末までに34km43年末までには35kmが完成し、ナチス政権下におけるアウトバーン建造の総延長は4019kmに達した。

     第二次大戦後、アウトバーン建設は再開され、1950年に2128kmだった総延長距離は、60年に2551km70年に4110km80年には7292kmと伸長し、東西ドイツが再統一された90年には8822km2000年には11515km2005年には12174kmに及んでいる(前掲書より)。

    フォルクスワーゲン開発とナチス

    フォルクスワーゲンビートル

     次に、フォルクスワーゲンの開発です。

    格差のない“民族共同体”の実現を約束したナチ体制は、それまで富裕層に限られていた財やサービスを労働者にも手の届く安い価格で提供し、国民全体の消費生活水準の底上げをはかる一連の取り組みを実施した。なかでも重要なのは、有給休暇の拡大、格安の旅行やレジャーの提供、安価なラジオ受信機や大衆向けの自動車の生産である》(『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』より)

     その自動車が、フォルクスワーゲンです。「ゴルフ」や「ビートル」、そして昨年に導入された電気自動車「ID.4」などで知られているVW。日本でも、今年2023年に販売70周年を迎えたメジャーブランドです。

     ドイツ語での“国民車”がそのまま社名とブランド名になっていて、今ではベントレーやランボルギーニ、ポルシェやアウディなど傘下に多くのブランドを抱える一大グループとして君臨しています。

     自らの設計事務所を構え、すでにさまざまなクルマを世に送り出し、名声も高かったフェルディナント・ポルシェ博士が工場建設も含めて設計を担当し、19342月にヒトラー自身によって開発が発表された“国民車構想”から始まったクルマとして知られています。

     しかし、実際はそれほど直截で簡単な話ではなく、さまざまな要素が複雑に関係しあった末のプロジェクトでした。

     安価な大衆車を求める声は以前からドイツで上っていたし、実際にオペルなどは製造販売していました。高橋壮一 著『ドイツの自動車』には、次にようにあります。

    ドイツの自動車

    ポルシェ博士の設計が具体的な形をとりはじめてくると、いよいよ脅威を感じたオペルは本国アメリカのGMの意向のもとに、この1935年のベルリン・ショーに独自の国民車“P4”を発表したのだ。それはポルシェ博士の設計とは対照的にまったく平凡なレイアウトの小型車だが、1450マルクという当時としては驚くべき低価格であった》(高橋壮一 著『ドイツの自動車』より)

     ダイムラー・ベンツ社が国民車プロジェクトのイニシアチブを取っていた時期もありました。ポルシェ博士の設計によるプロトタイプが完成しても、テストや設計変更などによって生産が遅れ続けるうちに193991日を迎えてしまいました。

     ポルシェ博士の息子フェリー・ポルシェの回想録 では、次のように記されています。

    すべての計画が延期されてしまった。それでも、約50台は生産されたが、全車、ナチのお偉方の予約分に回ってしまった》(ジョン・ベントリー 著・大沢 茂・斎藤太治男 訳 『ポルシェの生涯ーその苦悩と栄光』より)

    国民を欺いたフォルクスワーゲン積立金制度

     フォルクスワーゲン車は、積立金によって販売されることが19371023日に国民に発表されました。5ライヒスマルク以上を毎週積み立て、それが1台の購買価格990ライヒスマルクの75%に達した時に、クルマの引き渡しを申請することができます。

     予約は19396月末までに約25万人から集まっていたのにもかかわらず、結局は誰の手にも渡らなかったのです。工場では、「キューベルワーゲン」や「シュビムワーゲン」という軍用車ばかりが1940年から45年までに65000台余り造られました。

    シュビムワーゲン

     その期間に乗用タイプのフォルクスワーゲンが造られたのはたったの630台で、それらも将校用として配備されてしまいました。最終的に積立金を支払い続けた約33万人の国民には1台も渡ることがなかったのです。

     国家による詐欺そのものです。案の定、戦後の1948年になって「元フォルクスワーゲン貯金者救済同盟」が組織され、フォルクスワーゲン社は訴えられました。

     裁判は1970年まで続き、現金での払い戻しや新車購入の割引を受けることができたのが12572人。しかし、残りの21万余りの人々はその恩恵に浴することができませんでした。『ポルシェの生涯 その時代とクルマ』の著者・三石氏は《戦争の混乱の中で行方不明になったり、死亡してしまった者が、この数字であろうか》と結んでいます。

     この岩波ブックレットと一緒に前掲した参考図書も読んでいくと、アウトバーンとフォルクスワーゲンに限っただけでも様々な要素が複雑に絡み合いながら事態が進んでいった様子が良くわかります。

     当たり前の話ですが、単純でわかりやすく、それまでの常識を覆すかのような言説には、安っぽい爽快感のようなものがあり、そうした言説はポリティカルコレクトネスやきれいごとなどへの反発である、と『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』にも書いてあります。

    ナチスが存在しなかったら、どうなっていたか

     それこそフォルクスワーゲンでアウトバーンを走ったことは何度もあり、どちらもナチスが深く関与したものだと理解はしていましたが、直接的に「良いことだ」と考えたことはありませんでした。歴史に“もしも”はナンセンスですが、ナチスが存在しなかったとしてもアウトバーンやフォルクスワーゲンは現在の姿に近いものとなっていただろうと考えるからです。

     のちにフォルクスワーゲンとして結実する小型大衆車についても、ポルシェ博士はすでに1930年代前半にツェンダップ社やNSU社で類似したプロトタイプを完成させていますから、いずれどこかの自動車メーカーと連携しながら実現させていたのではないでしょうか。

     また、ヒトラーだけでなく、戦前にはスターリンから、戦後はドゴールから招聘され、それぞれの国での国民車の設計を打診されているので、ドイツではない別の国でフォルクスワーゲンを造り出していたのかもしれません。

     フランスには「オートルート」が、イタリアには「アウトストラーダ」があるように、戦後のヨーロッパでは各国ごとに高速道路網が急速に整備されていっています。ナチスが主導しなくても遅かれ早かれ、ドイツでも建設されていたことでしょう。

    戦争が促した道路網整備

     高速道路は自動車道路網の整備を意味しますが、クルマ以前の馬車の時代にも、道路網整備の重要性が実証されていました。

    フランスの道路は、ナポレオン・ボナパルトにより飛躍的に整備が進められた。彼はアルプスの戦略的重要性に着目し、シンプロン峠道やグロースグロックナー街道などの建設を推進した。道路整備は、彼ご自慢の砲兵隊の急速な展開には不可欠だったからである。もちろん、フランス国内の道路も舗装が進められた。そしてロシアへの侵略にあたっても、ドイツ、オーストリア、ポーランド、ロシアの道路建設を積極的に行なった。敗れたナポレオンが、モスクワからパリに馬車を乗り継いで逃げ帰った時(1812年)も、その道路に救われた》(折口 透 著『自動車の世紀』より)

    グロースグロッグナー街道

     オーストリアで最も標高の高い舗装道路のグロースグロッグナー街道を、ザルツブルク州側からもケルンテン州側からも走ったことがありましたが、ナポレオンが整備したものだとは知りませんでした。2504mの最高地点ホーホトール峠にあるミュージアムには、後に発見されたローマ時代のコインが展示されていましたから、古くから人の往来があったということに驚かされました。

    ➡参考記事「クルマで山へ!BMW「225xe」と「M3CS」でグロースグロックナー山を越える

     グロースグロッグナー街道で驚かされることはもうひとつあって、ここの絶壁の上をいく山道で開催されたヨーロッパヒルクライム選手権の1938年と1939年大会に、後述するダイムラー・ベンツのグランプリカーとアウトウニオンの「Pワーゲン」が出場し、上位を独占していたことです。

    Chris NIXON 著『The Silver Arrows』

     Chris NIXON 著『The Silver Arrows』には、ガードレールもない曲がりくねった山道を駆け上がっていくグランプリカーの写真が何枚も掲載されています。

    グロースグロッグナー街道

     話を、ヨーロッパの道路網に戻します。

    ナポレオンはわずか9年の治政の間に、ヨーロッパ大陸の道路網の整備に革命的な変化をもたらした。その業績はかつて“すべての道をローマ”に結びつけたローマ人のそれに匹敵する、と説く歴史家もいる。そして、パリを中心に自動車そのものを急速に発展させるためには、この“ナポレオンの遺産”なしには考えられぬことだった。そして後年、アドルフ・ヒトラーがナポレオンの先例にならい“歴史は繰り返す”かたちでアウトバーンの建設を急ピッチで進めたのも、決して偶然ではない》(折口 透著『自動車の世紀』より)

     折口氏の「パリを中心に自動車そのものを急速に発展させるためには、この“ナポレオンの遺産”なしには考えられぬことだった」という指摘は、まだ自動車レースのための専用サーキットが生まれる前の“パリ~ボルドー”や“パリ~ルーアン”などパリを起点とした、19世紀末の公道レースが自動車発展に大きく寄与したことを示しています。

    ナチスが支援したグランプリレース

    Pワーゲン

     岩波ブックレットでは言及されていませんが、クルマ関連のナチスのプロジェクトがもうひとつありました。ダイムラー・ベンツとアウトウニオンによるグランプリカープロジェクトです。国威発揚のために、ナチスは両社に巨額の資金を援助し、その甲斐あって両社は19341939年のグランプリレースを席巻したのです。

     減ったとはいえ、現代でもオリンピックなどで国威発揚のためのプロパガンダとしてスポーツが用いられる例はありますが、モータースポーツはあまり例を見ません。グランプリカーへの資金援助は、政権掌握直後の19332月のベルリン・モーターショーでのヒトラーの演説から始まっています。

     当初、ヒトラーはダイムラー・ベンツ社だけに政府補助金を支給し、プロジェクトを遂行するつもりでしたが、ダイムラー・ベンツ社に続いて補助金を申し入れたアウトウニオン社にも支給されました。アウトウニオン社代表のフォン・エールツェン、ポルシェ博士、レーシングドライバーのハンス・フォン・シュトゥックの3名がヒトラーを訪問。交渉の結果、初年度にダイムラー・ベンツ社に50万ライヒスマルク、アウトウニオン社に30万ライヒスマルク、その後を含めて全体としてダイムラー・ベンツ社に277.5万ライヒスマルク、アウトウニオン社に257.5万ライヒスマルクの開発補助金が支給されました(『ナチズムとドイツ自動車工業』より)。

    Pワーゲン

     これらの政府補助金によって、ポルシェ事務所では「Pワーゲン」という革新的なマシンを設計することができたのです。スーパーチャージドV16気筒(ポルシェ博士が関与しなくなったD型ではV12気筒)エンジンをドライバーと後輪の間に搭載しています。現代のレーシングカーでは常識的なミドエンジンレイアウトが早くも採用されています。

    Pワーゲン

     グランプリカーの設計は、フォルクスワーゲンのような小型大衆車を設計するのとは別の意味で難しい仕事です。しかし、自らの理想を追及できるがゆえに、設計者冥利に尽きたのではなかったでしょうか。良かろうが悪かろうがナチス政権下で大活躍したのがポルシェ博士だったのです。

     両社への巨額の開発補助金の支給は、技術発展を促進させたことから「悪いこと」ではなかったと言えるかもしれません。“汚れたカネ”によるプロパガンダだったにせよ、レーシングカーのポテンシャルを一気に高めたことは、筆者のような自動車ジャーナリストからすれば「良いこと」とは言えないまでも、大いに興味と関心を掻き立てられる研究対象であることは間違いないのです。

     戦後、フランスでのフォルクスワーゲンのような小型大衆車設計の依頼交渉中に、ポルシェ博士はフランスに1年7か月間拘束されます。戦時中の戦争協力の容疑からです。先に釈放された息子のフェリーは留守を守り切っただけでなく、イタリアのチシタリアというメーカーのレーシングカー設計プロジェクトでリーダーシップを発揮したりして、2代目の役割を立派に果たしました。

    ポルシェ356

     自身の名を冠したポルシェ社を設立し、初の製品となるスポーツカー「356」を送り出したのが1949年。その2年後に、博士は逝去しました。その後、息子フェリーは「356」を「911」に発展させ(1965年)、ポルシェ社をスポーカーメーカーとして大いに発展させました。

    ポルシェ911

     さらに孫のフェルディナント・ピエヒも、エンジニアとしてポルシェ社やアウディ社で大きな功績を挙げました。その後、フォルクスワーゲンをグループとして率いるようになり、祖父の設計したPワーゲンがサーキットで蹴散らしていたフランスのブガッティを超高級スポーツカーメーカーとして再興させたり、あまり縁のなさそうなイタリアのランボルギーニやイギリスのベントレーなどの超高級車メーカーを手に入れてグループに引き入れ、今日のVWグループの隆盛を築き上げています。

    フォルクスワーゲン工場

    「歴史の罠」を避けるために

     品薄の『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を『BooksCafé ドレッドノート』で買い求めて読み、関連書籍を読み直しました。ベストセラーになっている理由も納得できました。SNSを通じて気軽に発信された投稿などに、歴史学者が事実の間違いを指摘したことから始まり、場合によっては解釈のヒントを与えながら真摯に対応しています。誠実な姿勢が伝わってきました。

     リテラシーの問題なのかもしれませんが、シンプルな言説は心地良いけれども、ものごとはそんなに単純ではないし、簡単には割り切れません。事実を知れば知るほど、解釈の割り算が割り切れなくなっていくことを思い知らされます。

     関連書籍を読んでいて知ったのは、引用元となっているドイツ語の論文や書籍などがアップデイトを重ねていることです。特に、ダイムラー・ベンツ社やフォルクスワーゲン社のヒストリアンによる多くの事実の書き加えは研究を助け、理解を進めています。

     また、資料だけでなく、欧米の自動車メーカーは完璧にレストアした自社の昔のクルマを世界中のヒストリックカーイベントなどに持ち込んで往年の走りと勇姿を披露しています。リアル体験の機会が積み重ねられることによって、「良いこともした」というような安直な言説が生み出される下地を広げさせることなく、少しでも歴史を確実に共有することに接続できるのではないでしょうか。

    フォルクスワーゲンID.4

     電動化や自動化、ネット常時接続化などが進み、クルマは急速に生まれ変わろうとしています。前述の通り、フォルクスワーゲン社も「ID.4」というEVを昨年に日本で発売し始めました。なかなかの仕上がりです。従来型のエンジン車も新世代のEVも両方運転できる過渡期は、もう少し続くでしょう。完全な自動運転が実現されるとドライバーは運転しない(もしくは、できない)ようになるかもしれません。そうなった時、フォルクスワーゲン社はどんなクルマを造っているのでしょうか?

     また、完全自動運転が実現してドライバーが運転しないで済むとなると、その時間を他のことに有効活用することができます。アウトバーンの速度無制限による移動時間の短縮という意義が失われてしまうのです。速く走って急ぐ必要がないのですから、アウトバーン上に限らず、カーライフが劇的に変わります。ヒトラーやポルシェ博士、そしてハフラーバのホーフ会長などが想像もしていなかった世界が出現するのです。クルマの過去を振り返るのも面白いですが、未来を予想するのも楽しい。クルマは今、そういうところに来ています。『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』はお勧めです。ぜひ、買って読んでみて下さい。

    金子浩久
    私が書きました!
    自動車ライター
    金子浩久
    日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員(BE-PAL選出)。1961年東京都生まれ。趣味は、シーカヤックとバックカントリースキー。1台のクルマを長く乗り続けている人を訪ねるインタビュールポ「10年10万kmストーリー」がライフワーク。webと雑誌連載のほか、『レクサスのジレンマ』『ユーラシア横断1万5000キロ』ほか著書多数。構成を担当した涌井清春『クラシックカー屋一代記』(集英社新書)が好評発売中。https://www.kaneko-hirohisa.com/

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