東京23区内、特に山手線の内側はビル街や飲食店街、住宅街ばかり。そう思っている人が多いかもしれません。でも、目を凝らせば東京都心にも「山」はあります。そんな東京の山の世界を、日本で唯一のプロハイカーである斉藤正史さんが案内します。第10座目は、東京都品川区にある「権現山」です。
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第10座目「権現山」
前回の「池田山」への山行の中で、品川区に点在する「城南五山」について触れました。「池田山」「御殿山」「島津山」「花房山」「八ツ山」という5つの山です。その際、「島津山」は現存しないことが判明しました。
私が都内の山行の参考にしている手島宗太郎著「江戸・東京百名山を行く」によると、「花房山」も明確な山は存在せず、周辺一帯の高台をそう呼ぶとあります。そうなると「城南五山」のうち、残るは2座。前掲書によると「八ツ山」はありそうですが、では「御殿山」はどうなのでしょうか。とりあえず、歩いてみることにしました。
台場の造成と線路の敷設によって生まれた山
御殿山へは複数の最寄り駅=登山口がありますが、今回はJR品川駅高輪口を登山口にスタート。さすが品川駅、多くの人が行き交っていますが、さすがにここから山登りに向かう人はいないようです。
JRの線路脇をずっと進んでいくと、旧東海道の文字が見えてきました。ここは、八ッ山陸橋です。東海道とJR東海道線を立体交差させるために、1872年に架けられた橋だそうです。あの特撮の名作「ゴジラ」で、ゴジラが上陸の第一歩を印したのは、この八ッ山陸橋だったそうですよ。
前掲書「江戸・東京百名山を歩く」には、八ツ山コミュニティ道路に築山(つきやま=人工的につくられた山)の八ツ山があると書いてありました。コミュニティ道路には、東海道の宿場に関するモニュメントが宿場ごとに設置されていたのですが、築山の八ツ山は見つけられませんでした。
そもそも八ツ山の由来も多数あるようで、どうも実態がハッキリしません。他の地域のように、すでに造成などでなくなってしまい、八ツ山という地名だけが残っているのかもしれません。
さて、気を取り直して御殿山を目指します。せっかくなので北品川の商店街を通り、東海道の名残を感じながらその先へ進んでいきます。住宅街を歩き、品川女子学院の校舎のある道路に差し掛かります。学校の渡り廊下をくぐり、さらに登っていくとJRの線路が下の方に見えてきました。陸橋を渡っていくと、公園のような場所がありそうな雰囲気でした。ただし、まずは当初の目的通り、御殿山を目指して歩くことにしました。
さらに進むと、奥に森のような物が見えてきました。権現山公園です。公園入り口に「権現山の桜」と題した掲示板がありました。その説明によると、江戸時代、品川にあった「御殿山」は、海を望む景勝地で桜の名所として知られていたそうです。しかし、品川台場の造成のため切り崩され、さらに明治に入ると鉄道敷設のため尾根が東西に切り離されてしまったそうです。御殿山から切り離されて残ったピークが、今いるこの「権現山」となったのだとか。つまり、権現山は明治時代に誕生した山、なのですね。
先ほど、陸橋の上を進むとこの先に何かありそうと思った方向には、分断された一方の御殿山があるようでした。桜の名所でもある御殿山の名残りか、この権現山公園も桜の木が多く、春には桜が咲き誇る桜の名所になっているそうです。
キレイに整備された公園を奥に進んでいくと階段があり、それを登った先の小高い一帯にベンチが設置してありました。公園内では、ここが一番標高が高いようです。そこからは、御殿山が分断されるきっかけになった線路も見えました。
今までめぐってきた東京都内の山々の中には、実際に足を運んでみると、すでに造成などで姿を消してしまったものもありました。そうした中、江戸時代にはなかった山が造成によって誕生することもあるのだと、今回の権現山で初めて知りました。5年後、10年後、今ある山がなくなってしまうかもしれませんが、一方で令和の時代に新しい山が誕生することもあるのでしょうか。東京の山々の諸行無常に思いを馳せながら、権現山を後にしたのでした。
次回は「歴史の変遷を見守ってきた将軍ゆかりの山」を予定しています。
なお、今回紹介したルートを登った様子は、動画でご覧いただけます。