新潟・燕三条の小さな金物問屋を世界屈指のアウトドア企業へと育て上げた山井太さん。
自然を愛し、日本のキャンプ文化の最先端を走り抜けてきた男はいま、どんな未来を思い描いているのか。
スノーピーク密着取材シリーズ、第1弾!
「キャンプ」を豊かでおしゃれなものに
──65周年を機に来年度は新製品が多数発表されるそうですね。
昨年、開発の責任者に戻ったとき、真っ先に「陣頭指揮をとって圧倒的な新製品を送り出す」と宣言しました。スノーピークしか作れないものを出していく、と。それが形になりつつあります。2024年度は、スノーピークらしいアイテムを60モデルほどリリースします。
私が入社以来一貫して目指してきたのは「キャンプを豊かでおしゃれなものにすること」です。製品そのものではなく、キャンプをする行為自体をデザインしようと思ってやってきました。
私がスノーピークに入社した’86年当時は、雨漏りするテントでカップラーメンを食べるような楽しみ方しか知られていなかった。一方、ロッジ型のテントは、重くて設営が大変でした。そこで私は、機動的に設営できて雨風に強いドームテントとタープ、ファニチャーを組み合わせて、豊かなキャンプを楽しむスタイルを提案しようと考えました。
そのスタイルが完成を見たのが’90年のこと。これで日本のキャンプが変わる、と思えました。当時発売した『アメニティドーム“エルフィールド”』は15万8000円と高価でしたが、ユーザーは受け入れてくれました。
まず、豊かなキャンプをイメージして製品を作る。それがユーザーに選ばれて名品になる。そんな順番なんです。
──スノーピークといえば、「永久保証」が大きな特徴です。
キャンパーとしていちばん嫌なのが現場で物が壊れることです。それが起こらないようにテストを繰り返し、品質を高めていく。私は年間50泊以上キャンプをしますが、そんなキャンパーが10年使っても壊れない品質を追求するとスノーピークの品質になる。私はこれがアウトドア道具としての最低限度のクオリティーだと思っています。
使用した素材の寿命が尽きない限り「永久保証」をお約束するのは、長く使える物を提供している自負の表われでもあります。
いくら安くても、数回の使用で壊れる道具は不経済だし、環境負荷も大きい。壊れにくいものを作りたいし、壊れたら迅速に修理してお返ししたい。
現時点でスノーピークが修理の依頼を受けてそれをお返しするまでに要する時間は約1.5日です。週末に壊れた道具を送ってもらえば、次の週末までに修理してお届けできています。
もうひとつ、長く使うための試みとして、新たに「スノーピークサーキュレーションコア」という会社を設立し、スノーピーク公式の「製品リユース」サービスを始めました。ユーザーからスノーピーク製品を買い取って整備・補修して再び流通させる取り組みです。
アウトドア用品が買われるとき、リセールバリューはほとんど考えられません。すると、性能が低い安価な商品が選ばれてしまうことがあります。そこでスノーピーク製品に「中古品としての価値」を付加しました。
使ったあとも元の価格の数10%で買い戻してもらえるのなら、実質的には買い戻し価格を差し引いた価格で利用できることになる。この取り組みによって、ロングライフで高品質なアイテムを積極的に選んでもらえるようになると考えています。
外資系商社のトップセールスマンが町工場からキャンプを変えた
──あらためてスノーピークの成り立ちを教えてください。
スノーピークの歴史は私の父の山井幸雄に遡ります。父は1958年に「山井幸雄商店」を起こして登山用品や釣り具を作りはじめました。登山家としての経験を製品開発に活かすスタイルは、私と共通していますね。この会社は後に屋号を「ヤマコウ」に変え、’96年に「スノーピーク」へと名前を改めました。
私がスノーピークの前身のヤマコウに入社したのは’86年のこと。留学を経た私は東京の外資系の商社で働いており、トップセールスマンになっていました。毎朝、未来的だけど不気味な新宿高層ビルの通路を通勤しながら「ここは自分のいる場所ではない」と感じていました。そんなときに父から電話がかかってきて、ぶっきらぼうだが断ることは許さないという口調で「3年たったら帰ってくる約束だから帰ってこい」と一方的に伝えられたんです。
そのときのスノーピークの社員数は15人で売り上げは5億円、うち4億円は釣り具でした。商社で10億円を売り上げていた私は、少ないと思いました。それで親父の会社に入って、キャンプのビジネスを立ち上げようと思ったんです。27歳のときでした。
時代はバブルで、パジェロなどのRVやマウンテンパーカが流行していました。しかし日本人はまだ、豊かなキャンプを知らなかった。そこで私はアメリカで見たアウトドアのスタイルを提案しようと思ったんです。
このころビーパルも発行部数が50万部に達していましたよね。
──はい。まさに第一次アウトドアブームの全盛期でした。
’88年にオートキャンプ関連の製品を発表するとこれが話題になり、’92年にはビーパルが「エポックメイキングな存在」として特集で取り上げてくれました。これは感慨深かった。スノーピークが初めて一流ブランドとして外部から認められたわけですから。この記事はぜひ父に見せたかったのですが、編集作業中に父は亡くなり、私はビーパルのこの号を仏壇に供えました。
翌’93年にスノーピークの売り上げは25億5000万円を達成します。しかし直後にキャンプブームは去り、’99年まで売り上げの減少が続きました。
試練の数年でしたが、’96年にはロングセラーとなる『焚火台』をリリース。’98年にはスノーピーク社員とユーザーの皆さんが一緒にキャンプをするイベント「スノーピークウェイ」の第1回を開催し、スノーピークが会社として進む道が定まりました。
以来、私はスノーピークとお客様の関係、そしてお客様同士の関係を大切にしてきました。いまではスノーピークを中心にしたユーザー同士の強固なコミュニティーがあります。
ファンが作るコミュニティがスノーピークを育ててくれた
これほど強い関係性が生まれたきっかけは、スノーピークが選んだ流通方式にあります。
品質を重視する結果、スノーピークの製品は原価が高くなってしまいます。そこで私は思い切って流通マージンのカットに挑戦しました。小売店に直接納品することにしたのです。
同時に小売店には徹底した商品説明を行ない、お客様に商品の特徴を細やかに説明できる体制を整えました。納得して買っていただき、「スノーピークウェイ」で一緒にキャンプしながら使用感を聞きとる。そしてそれを製品開発にフィードバックする。スノーピークのファンを大切にする社風はそんな関係性のなかで育まれました。
一緒に焚き火を囲んで「この商品使えないんだよ!」と直にぶつけられるのと、会社のオフィスでユーザーアンケートの結果を読むのとでは、同じ知識でも納得感がまるで違うんです。
今年、スノーピークは全国で84のイベントを行ないますが、その現場で出たご意見や改善のご要望には、必ず社内で協議、検討し、できるだけ答えられるようにしています。
──イベントを年に84回!
ユーザーイベントはスノーピークに必須の存在です。スノーピークの社員はみなヘビーなキャンパーだから、以前はキャンパーとしてユーザーのかなり先を行ってしまうことが多かった。登場が早すぎたために売れず、廃番にしたアイテムもたくさんあり、後に欲しいといわれることがよくあった。
それを解消したのも「スノーピークウェイ」でした。実際にユーザーにお会いして話をするなかでユーザーの要望を肌感で感じ取れるようになったんです。
クライマーの父から山登りを禁じられた少年時代
──ヤマコウは登山と釣り具のメーカーでしたが、山井さんはキャンプを選びました。
3つの体験が影響しています。ひとつ目は幼年時代に「ここには神がいる」と感じるほどの圧倒的な自然風景に出会ったこと。新潟に早出川という川があるのですが、ブナの森を流れるその川は驚くほど水が透明で、自分が知る川とはまるで違っていました。群馬の草津白根山でも似たような感覚を得たことがあります。白根山は標高2000mあたりで森林限界になるのですが、森林限界を超えた先の風景に圧倒的な感銘を受けた。どちらも小学校に上がる前の体験ですね。
2つ目は父がクライミングに入れ上げたアウトドアパーソンだったこと。そして3つ目はその父から山登りを禁じられたことです。10歳のころ、父に座敷に座らされて「お前の性格ではいつか必ず死ぬから、今後山に行かせない」といい渡されたんです。私は登山家や探検家の伝記を好んで読み、9歳のころには2階から乗り出す長い竹馬を作って遊んでいました。生来のリスクテイカーだったんですね。
山登りを禁じたあとも父はキャンプに連れていってくれたけれど、当時の日本のキャンプはとても貧相で私はそれを楽しめなかった。本当に豊かなアウトドア体験をしたのはアメリカ留学中のことでした。生活の道具を担いで歩くバックパッキングの文化に触れたんです。
キャンプ自体は日本で親しんだものとそれほど変わらないのですが、アメリカのアウトドアって「来週末は森の中で過ごそうよ!」という感じで、じつに気軽で心地よい過ごし方なんです。
考えてみれば当然なんです。アメリカの建国の歴史はキャンプとともにありますから。彼らは幌馬車で進みながらキャンプを繰り返し、北米大陸を開拓していった。いまもアメリカの人口の約半分がキャンプを楽しんでいるといわれています。
──アウトドア誌としてはとても羨ましい文化です。
いや、日本も捨てたものではないですよ。私は団塊ジュニア以降の世代に期待しています。彼らは子供のころにキャンプを体験しているから、この先キャンプ人口は増加していくと思います。
スノーピークは2014年に株式上場しましたが、上場したのは「資本主義社会にキャンプの存在を認めてもらいたい」という思いからでした。キャンプをテーマとする会社として初めて上場したスノーピークはいま、最上位の東証プライム銘柄です。これもキャンプが社会に受け入れられた証だと思います。
ここ、「ヘッドクォーターズ」の利用者数も増加し続け、キャンプサイトが手狭になったので新たに拡張しました。サイトの快適さや水回りには気をつかっています。トイレは清潔でなくてはいけないし、寒い時季の洗い物が辛くないように温水が出るようにしています。直営のキャンプ場はもちろん、全国の市町村とともに運営するキャンプ場も同じ思想で運営しています。いずれは47都道府県の全部にスノーピークが運営するキャンプ場をつくりたいですね。
デジタルが席巻するいまこそリアルな自然体験が必要だ
──スノーピーク製品は、海外でも大人気ですね。
スノーピークはいま、アメリカ、イギリス、韓国、中国、台湾に会社があります。これらの海外拠点を足がかりにグローバル展開をさらに進めたいと思っています。
グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン。私らのようなアウトドアメーカーが束になってもGAFAの足元にも及ばない。でもデジタルが世界を席巻すればするほど、キャンプや自然体験などリアルな体験へのニーズが高まるのではないかと思います。実在する世界と実在しない世界の比重が逆転しているのはおかしいし、危うい。だから私は社員に酒飲み話でいうんです。GAFAが数千兆売り上げるなら、スノーピークが同じだけ売り上げてもおかしくない、って(笑)。
自然とともに人間らしく生きていきたいと思う人はますます増えていくと思います。スノーピークには、道具と体験を提供するノウハウがあります。そのノウハウを、キャンプの力で全世界に広めていきたいですね。
スノーピーク65年史
1958年 「山井幸雄商店」創業
1963年 「スノーピーク」商標登録
1971年 「株式会社ヤマコウ」に社名・組織変更
1976年より自社工場稼働
1981年 「ビーパル」創刊
1987年 『スノーピークマルチスタンド』発売
1988年 『スノーピークタープ ルーフ』発売
1990年 『アメニティドーム"エルフィールド"』発売
1995年 『ソリッドステーク』発売
1996年 「スノーピーク」に社名変更。『焚火台』『ペグハンマー PRO.C』『和武器』発売
1998年 キャンプイベント「スノーピークウェイ」開始。『ワンアクションテーブル』『Take! チェア』『ギガパワーストーブ"地"』『チタンダブルマグ』発売
1999年 『ギガパワーストーブ“地”』と『ソロコンボクックセット』が米国「Backpacker」誌の「EDITOR’S CHOICE」を受賞
2000年 『ランドブリーズ・リビングシェル』発売
冬は暖かく夏は涼しく過ごせるシェルター。テントと直結すればリビングルームとなる。
2003年 初の直営店開店(福岡・大宰府、東京・晴海)
2009年 『ランドロック』発売
2011年 本社を「HEADQUARTERS」に移転、併設の直営キャンプ場オープン
2012年 『ソリッドステートランタン ゆきほたる』が米国「Backpacker」誌の「EDITOR’S CHOICE」を受賞
2013年 米国ポートランドに直営店オープン。『ソリッドステートランプ たねほおずき』が米国「Backpacker」誌の「EDITOR’S CHOICE」を、『チタンダブルマグ450』が「EDITOR’S CHOICE GOLD」を受賞
2015年 『ギガパワーストーブ“地”』が米国「Backpacker」誌の「EDITOR’S CHOICE GOLD」を受賞
2016年 隈研吾氏と共同開発したモバイルハウス『住箱ーJYUBAKOー』発売
2019年 「Snow Peak MUSEUM」オープン
2021年 『グランベルク』発売
2022年 「Snow Peak FIELD SUITE SPA HEADQUARTERS」オープン。米国ニューヨークに「Snow Peak Brooklyn」オープン
提供/スノーピーク https://www.snowpeak.co.jp/