2022年3月、84歳で旅立ったカヌーイスト、野田知佑。『日本の川を旅する』『北極海へ』をはじめとする数々の名紀行作品を著し、「すぐおいしい、すごくおいしい」というコピーで知られるチキンラーメンのCMにカヌー犬ガクとともに登場、環境問題にも一石を通じた野田さんが遺したものは何だったのか。ともに旅をし、川で遊び、ときに酒を酌み交わして語り合った仲間たちが、野田さんから受け継いだ大切なものについてリレー形式で綴る連載。第1回はバックパッカー・紀行作家のシェルパ斉藤さんです。
さて、諸君。すぐ今からパドルを握って野に出たまえ
野田さんが初めてビーパルに書いた記事を僕はリアルタイムで読んでいない。その年、僕は大学を1年間休学してオーストラリアを旅していたからだ。
帰国後に友人が買っていたビーパルを一気読みして『のんびり行こうぜ』に夢中になり、野田さんに魅せられた。かっこよくて、わかりやすくて、ユーモアもあって、温度も感じられる文章。自由な生きざまにも、単独で川を下る旅のスタイルにも憧れを抱いた。
大学卒業の年、自分が何をすべきか答えを探すために僕は揚子江をゴムボートで下る旅に出るのだが(もちろん単独だ)、その旅を思い立ったのも野田さんの影響が少なからずある。
大学を卒業してフリーランスになった僕は、ビーパルに出入りして先輩ライターの仕事を手伝った。カヌーリバーツーリングのムック本にも関わらせてもらったのだが、その巻頭に寄せた野田さんの原稿を読んだ若手編集者サカイ(のちの編集長)が「さすが野田さん!」と感服した。
生原稿を読ませてもらった僕も胸が震えた。玉稿の最後の文はこうである。
「さて、諸君。ここまで教えたからにはすぐ今からパドルを握って野に出たまえ。暖衣飽食は老人にまかせて、少し辛いがスリルに満ちた荒野を一人で漕いで行きたまえ。あらゆる面白いこと、そして沢山の苦難が諸君の上にふりかかることを祈る」
しびれた。都会を脱け出して荒野の川をめざしたくなった。こんなにかっこよくて、胸に突き刺さる文章は野田さんにしか書けない。
憧憬の念が一段と増した野田さんに初めて会ったのは、長良川河口堰反対のカヌーイストミーティングだった。野田さんを敬愛する全国のカヌーイストが長良川に集結し、河口堰建設予定地の川面はカヌーで埋め尽くされた。
野田さんは常にファンに囲まれていたが、ふとしたタイミングで野田さんがひとりになった。僕はカヌーを漕いで野田さんのカヌーに近づいた。
「野田さん、はじめまして。斉藤といいます。揚子江をゴムボートで下った旅をビーパルに書きました」
「ああ、君か」
それが野田さんの発した言葉だった。野田さんは僕のカヌーを片手で引き寄せて、船体布をポンポンと軽く叩いた。カウボーイが馬を「よしよし」と労うような優しい仕草に思えた。
それから先の記憶がない。揚子江の旅がどうだったのか聞かれて答えた気もするし、会話がないまま時間が流れた気もする。初恋の女性に告白したときの感覚に近く、僕の胸はときめきっぱなしで、頭の中は真っ白だった。
その約1年後、僕はシェルパ斉藤としてビーパルで連載がはじまった。東京から大阪まで、東海自然歩道を歩く旅の連載である。野田さんと同じ立場になれたわけだが、格の違いは明白だった。僕はファンの立場で『のんびり行こうぜ』を毎号楽しみに読んでいた。
自分の連載がはじまって3年目くらいだったと思う。野田さんは『のんびり行こうぜ』で「シェルパ斉藤の行きあたりばっ旅は、ぼくの好きな連載の一つだ。でも先月号はいただけない」と、メッセージを寄せてくれた。
何度も読み返した。叱られている文章なのに、何度読み返しても胸がキュンとなった。野田さんが僕の存在を気に留めてくれていたことがうれしくてたまらなかった。
その後、僕は東京から八ヶ岳山麓に移住して仲間たちとともに家づくりに着手した。あと少しで家が完成するタイミングで、野田さんとビーパル誌面で対談できることになった。野田さんも僕も新刊の発売時期で、それを記念した対談企画だった。
対談のテーマは『僕らが、たったひとりで旅に出る理由』である。雲の上の存在だった野田さんに対して、僕は素直に自分の意見を話せたと思う。共通する部分もあり、野田さんの眼差しは温かく感じられた。
妻は知り合う以前から野田さん大ファンだった
その対談から数か月後、野田さんは完成したばかりの八ヶ岳山麓のわが家を訪ねてくれた。
僕よりも妻が舞い上がった。妻は僕と知り合う以前から野田さんの大ファンだったのだ(僕とつきあえば野田さんと知り合えるかも、と思って交際がスタートした節もある)。
当時鹿児島で暮らしていた野田さんは「鹿児島に来たら訪ねておいで」と妻に告げ、妻はその言葉に甘えた。七五三のお祝いがわりに5歳になる一歩と日本一周の旅に出た妻は、旅の途中で鹿児島の野田さんを訪ねた。
野田さんはふたりをカヌーに誘った。カヌーイストだった妻は大喜びだったが、弱虫の一歩は「乗りたくない」とカヌーに乗ろうとしなかった。
そんな一歩を野田さんはカヌーには乗せようとはせず、川で一緒に遊んだ。川の浅瀬に石を積んで生簀(いけす)を作り、セルビンでつかまえたハヤをそこに入れて、水遊びをした。
それがきっかけなのかはわからないが、一歩は野田さんを慕うようになった。野田さんから誘われるケースも増え、僕らは次男の南歩も犬たちも連れて一家総出で野田さんを訪ねたりした。野田さんが鹿児島から徳島に移住してからは出かける回数がぐんと増えた。
僕らが行くと野田さんは車にカヌーを積んで、日和佐駅近くの店でセルフのうどんを食べてから、コンビニで揚げ物やお菓子の買い出しをして川や海へ出かける。子供たちも犬たちもずぶ濡れになって遊ぶ。野田さんも一緒だ。野田さんは子供たちと遊んでくれるのではない。一緒に遊ぶのだ。うちの子に限らず、野田さんを慕う子供たちと野田さんは本気で遊ぶ。そんな姿を妻は「野田さんは良寛さんみたい」と野田さんを良寛和尚に重ねた。
一歩がカヌーの初沈を体験した日は、「お祝いだ。好きなものを好きなだけ食わせてやる」と、野田さんは中華料理店に出かけて一歩の大好物だった鳥の唐揚げをたっぷり頼んだ。山盛りの唐揚げを目にした一歩は大喜びで食らいつき、胃もたれするほど食べた。そんな一歩を野田さんは笑って眺めた。
そのころだったと思う。野田さんから「俺の家を作ってくれないか」と依頼された。セルフビルドしたわが家を野田さんは気に入ったらしい。一級建築士である妻と僕は野田さんのライフスタイルに合った家のプランを練った。
諸事情により、野田さんの新居建築に僕らが携わることはなくなったが、野田さんに信頼されて託された事実は、僕らの生活の大きな自信になった。
意志的なもののない人生なんてまっぴらだ
年に2回のペースで僕らは徳島の野田さんを訪ねていたが、子供たちの成長とともに足が遠のいた。
部活などで息子たちがあまり時間をとれなくなったからだ。そのかわり、野田さんがわが家を訪ねてくれるようになった。毎年秋に千曲川で開催されるカヌーイベントの帰りにわが家へ立ち寄ってくれるのだ。
小学生のときの一歩は、思う存分遊ばせてもらえる大人として野田さんを見ていたが、成長するにつれ、憧れの大人として尊敬の念で野田さんに接しはじめた。かつて僕が野田さんに抱いた感情に近い。野田さんは悩める若者たちにエールを送ってくれる頼もしき大人なのだ。
野田さんが青春時代を書いた著作に次のような記述がある。
「ぼくの周辺に現われる大人たちは大ていぼくの顔を見ると『早く就職してマジメになれ』と説教した。馬鹿メ、とぼくは心から彼等を軽蔑した。マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張っているのではないか。不マジメならいい加減に妥協してとっくにそのあたりの会社に就職している。(中略)意志的なもののない人生なんてまっぴらだ、そう思っていた」
その言葉で自分が何をなすべきか悩んでいる若者は救われたはずだ。
一歩が大学受験を控えた時期には、野田さんから妻宛てに一冊の本と手紙が送られてきた。
「一歩に本を送ります。ぼくはこの本を読んでいて、しきりに一歩を思っていた。少年時代からずっと彼を見てきたぼくには彼の青春教育について少しはいう資格がある。ぼくの72年の生涯の中で彼ほど性格のいい少年はいません。ああこれはシェルパの子だ、善意と性格のよさを武器にして世の中を渡っていける子供だと思った。(中略)あなたがこの本を読んでいいと思うなら一歩に渡してください」
本のタイトルは秘密にしておく。野田さんが多感な高校生にどんな本をすすめるか、想像してもらいたい。文豪の作品で、僕も青春時代に読んで感銘を受けた本、と記しておこう。
野田さんからの手紙は「京子さんはぼくが知っている限り、最も幸福な妻であり母親です。あなたの人生がずっとこのようにうまくいきますように」と締めくくられていた。
うぬぼれでもうしわけないけれど、野田さんは手紙で僕を褒めてくれたんだと思う。感激した妻は表彰状のように手紙を額に入れ、家宝にしている。
野田知佑を永遠に忘れない。27年来の約束を守りながら
野田さんは毎年、わが家に立ち寄って僕らと語り合っていく。
それは僕らの最高の喜びであり、幸せな時間なんだけど、あるとき思った。
野田さんと過ごすこの幸福な時間を、ビーパルに携わっている仲間と分かち合ったらどうだろう。気の合うすばらしき仲間に囲まれたら、野田さんもきっと喜んでくれるはずだ。
僕は仲間に声をかけて、わがカフェ、チームシェルパで野田さんと焚き火を囲む会、略して野田会を開催した。
料理を担当するのは、ビーパルが誇る野外料理のスペシャリスト、蜂須賀公之(はちすかまさゆき)さんと長野修平さんだ。ふたりが腕を振るった料理に舌鼓を打ち、野田さんを中心に焚き火を囲んで酒を飲み、夜更けまで語らう。
野遊びが好きなアウトドアのスペシャリストたちの集まりである。価値観が似ているし、みんなでビーパルをつくりあげている仲間意識もあって、野田会はおおいに盛り上がった。
野田会に参加する誰もが野田さんを尊敬の眼差しで見つめている姿が微笑ましい。僕がそうであるように、みんな野田さんが大好きなのだ。野田さんはビーパルの宝であり、中心であることをあらためて確認できた。
野田さんも上機嫌で、夜更けまで飲み語らい、ハーモニカの演奏も披露。みんなが満足している様子を眺めて、主催者の僕は大いなる満足感を得た。
こうして2012年にはじまった野田会は、野田さんのカヌーイベントに合わせて毎年9月の月曜日に開催してきた。平日にもかかわらず毎年30人近い人々が集まり、野田さんを囲んだ。
野田会の開催は僕にとっての生きがいであり活力にもなったが、コロナ禍以降は開催することができなくなった。
そして野田さんは旅立ってしまった。
雲の上の存在だった野田さんに少し近づけたと思ったのに、野田さんは本当に雲の上の存在になってしまった。
でも野田会の幕を下ろしたくはない。みんなで焚き火を囲んで、空の上にいる野田さんを偲ぼうと、5月の週末に3年ぶりとなる野田会を開催した。
これまでとは異なる野田会だけど、野田さんに対する思いは変わらない。
焚き火の煙が夜空へと消えていく。
その煙に僕は野田さんへの思いを託した。27年前の初対談の席で野田さんは「お前はひとりで旅に出て、それをビーパルに書き続けろ」と語り、僕は「はい」と強く返事をした。
その約束を、僕はこれからもずっと守り続けていく。
小学館
完全保存版 カヌーイスト野田知佑メモリアルブック
野田知佑の航跡を振り返りつつ、使った道具や旅した川の地図、親交のあった作家が見た彼の横顔、文章の元となったメモ書きに書斎の写真なども収録。手元に置きたくなる、そして旅に出たくなる一冊。
定価1,650円(税込)
判型:B5版/98頁 ISBN 978-4-09-104263-7
全国の書店およびネット書店にて絶賛発売中。
※問い合わせ先/小学館愛読者サービスセンター 03(5281)3555(月~金 9:30~17:30、土・日・祝休日・5/1除く)
(BE-PAL2022年7月号より転載)