東京23区内、特に山手線の内側はビル街や飲食店街、住宅街ばかり。そう思っている人が多いかもしれません。でも、目を凝らせば東京都心にも「山」はあります。そんな東京の山の世界を、日本で唯一のプロハイカーである斉藤正史さんが案内します。第17座目は、東京都文京区で昔の町名を頼りに幻の山を探します。
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第17座目「丸山」
前回に続いて、今回も文京区を歩きます。
学生時代、文京区小石川にあった山形県育英会学生寮で暮らしていた私にとって、白山の思い出はラーメンです。確か、金曜~日曜の夜中、白山通りに屋台が出ていた白山ラーメン。ゆで卵が1個半も入るおいしい豚骨ラーメンを求め、門限の過ぎた夜中に寮を抜け出し食べに行ったことを思い出します。
いつも歩いて食べに行っていたのですが、当時は春日からは近いはずの白山がとても遠く感じていました。それもそのはず、調べてみると、白山通りとはいえ限りなく巣鴨に近いエリアに屋台を出していたようです。というわけで、夜中しか白山に行ったことがなく、深夜で電車も動いていなかったので、一駅隣に住んでいるにも関わらず、白山駅で下りたことはありませんでした。
台地の名前と領地の名前の合せ技
今回は、都営三田線白山駅が登山口(最寄り駅)です。初めて都営三田線白山駅を降り、白山通りを目指して進みます。白山通りに出ると、交通量の多い通りに面した歩道を歩くのですが、どうも味気ない。
気分を変えようと、路地を歩いてみました。すると、昔ながらの着物の染めもの屋さんをはじめ、下町情緒あふれる道でした。早く移動するなら大きな通り、時間があるなら裏道を歩くと面白い発見があるのかもしれませんね。
ところで、勘のいい読者の方なら気付いているかもしれません。過去に紹介した東京都内の山も、公園内に鎮座していたケースが多くありました。そして、今回も山があるらしいという情報の手掛かりは、丸山福山児童公園だったのです。まさに、公園に由来あり!
白山通りの裏道から、住宅街を進みます。全くの平地、特に坂も登らずに着いたのが、丸山福山児童公園でした。そして、やはり児童公園の脇に、文京区が設置した旧地名を記す看板がありました。
当地には、古くは備後福山藩主である阿部氏の中屋敷があったそうですが、後に旗本の武家地となったそうです。明治時代、新たな町名を付ける際に、この辺の台地一帯の呼び名「丸山」と、阿部氏の領地「福山」とをあわせ、「丸山福山町」としたそうです。
間違いなく「丸山」という名前の山(台地)はあったのです。とはいえ、現在の丸山福山児童公園の周囲は平地です。
もしかしたら、丸山福山児童公園の坂の上に丸山があったのではないかと思い、児童公園脇の新坂(福山坂)を登っていきました。坂の途中にある案内板には、この坂を登った一帯は学者街と言われ、夏目漱石など多くの文人も住んでいたそうです。
坂を登り、西片公園に付くと、ここにも看板がありました。そこには旧駒込西片町と大椎木(おおしいのき)の歴史が紹介されていました。ただし、この辺りは小高いエリアなのですが、残念ながら旧丸山福山町や「山」に関する記述はありませんでした。
現在の丸山福山児童公園の辺りが、「丸山」と呼ばれていたのは事実です。ただ、残念ながら山の痕跡などは残っていません。それでも、かつては周辺の小高い台地が丸山だったのだろうと想像し、今回は下山したいと思います。
ただし、話はここで終わりません。実は、山を探す一方で、偶然にも樋口一葉の終焉の地に導かれたのでした。一葉は、父の他界以降、家賃の安い借家へ移ろうと本郷菊坂へ引っ越し、母と妹と3人での針仕事や洗い張りなどの賃仕事をしました。それだけでは足りず、方々に借金を繰り返す苦しい生活を強いられたそうです。
そんな中、歌の塾「萩の舎」(はぎのや)の姉弟子である三宅花圃(みやけかほ)が小説を書いて多額の原稿料を得たことを知り、一葉も小説家を目指します。その後、吉原遊郭(よしわらゆうかく)近くの下谷龍泉寺町、丸山福山町と転居。丸山福山町に住み始めてからは、「たけくらべ」、「ゆく雲」、「にごりえ」「十三夜」など、次々に作品を世に送り出しました。
しかし、当時はまだ治療方法がなかった結核を患い、一葉は24歳という若さでこの世を去ったのでした。旧丸山福山町で最期を迎えた一葉の作家生活は、わずか14か月余りだったそうです。
多くの文人の足跡が残る文京区で、私は山を通して、偶然にも樋口一葉の生涯を知ることになりました。これも近代文学の聖地、文京区の「山」ならではの出会いなのかもしれません。儚い彼女の人生を知り、あらためて樋口一葉の本を手に取ってみようと思った今回の山行でした。
次回は「文京区のミニチュア富士」を予定しています。
なお、今回紹介したルートを登った様子は、動画でご覧いただけます。