「自然は資源、人は価値。幸せの風は『地方』から」を旗印に、さまざまな活動をする‟田舎賢人”へインタビュー。今回は自然保護活動に従事する方にお話を聞いた。
お話を聞いたのはこの方!
公益財団法人・日本自然保護協会国際担当 道家哲平さん
新聞やwebで急浮上してきたキーワードがネイチャーポジティブ。環境と経済をめぐる新用語のようだが、どんな意味で、私たちの未来をどのような方向へ導くのだろう。
生物多様性の損失を止めるだけでなく、再生への転換を目指す指針、それがネイチャーポジティブです
日本自然保護協会で国際担当スタッフとして働く道家哲平さんは、2008年のCOP9(生物多様性条約第9回締約国会議)から、’21〜’22年のCOP15まで、日本側オブザーバーとして連続して会議に参加し、交渉の詳細を報告してきた。
名古屋で開かれたCOP10(’10年開催)ではSATOYAMAイニシアティブという言葉が有名になったが、COP15の注目キーワードはネイチャーポジティブだという。決議に盛り込まれたその用語は、どんな意味を持ち、私たちの暮らしにどうつながっていくのだろう。
生物多様性への取り組み姿勢が企業評価として可視化される
──今でこそ普通に使われている生物多様性という言葉ですが、当初は耳慣れないものでした。その概念が世の中に出てきたのはいつぐらいでしょうか。
「生物多様性条約の署名が始まったのは1992年にリオデジャネイロで開催された地球サミットです。気候変動枠組条約の署名と同時だったと記憶します。翌’93年に条約が発効。日本も国会決議を経て締結しました。
1回目のCOPは’94年にバハマで開かれましたが、当時はまだなじみのない言葉であり概念でした。変化の節目は名古屋でのCOP10だと思います。私がCOPに初めて参加したのは’08年にドイツのボンで開かれた第9回からですが、当時、一般メディアはまだ生物多様性という言葉を使っていませんでした。
取材した記者が原稿に使っても、わかりやすい言葉にいい換えるようデスクからダメ出しをされたり。条約名なのでいい換えようもないのですが、当時はまだそんな感じでした」
──SDGsも最初はそうでしたね。そして今はネイチャーポジティブ。どのような文脈で使われている言葉なのでしょう。
「今までの環境配慮はネガティブ、つまり自然に対するマイナスの影響をゼロに近づければよいというものでした。経済活動が環境破壊につながっているという認識が共有されて以降、その対策は影響軽減という考えのもとで行なわれてきました。
ですが、世界中の人たちがこれ以上の環境破壊を食い止めようとがんばっても、達成目標が負荷ゼロではプラスに、つまり回復には転じません。
象徴的な例がニホンウナギです。日本人が長年愛してきたおなじみの食材ですが、今は絶滅の危機に瀕しています。原因には食べすぎ、獲りすぎもありますが、海と川との行き来を阻害するダムや堰などの構造物の存在も要因です」
──実際の背景は複雑ですね。
「島根県の宍道湖での調査では、流域で使われた農薬の影響でエサとなる生きものが激減したために減ったという報告があります。地球温暖化による海流の変化が、日本列島から数千キロも離れた場所で生まれたウナギの仔魚の移動に影響を与えている可能性も指摘されています。
とはいえ、人間はウナギ憎しと思ってやってきたわけではありません。正しいと考えられた公共事業、補助金、経済活動が結果として絶滅が心配されるほどの状況にウナギを追い込んでしまった。そうした構造を知ったとき、私たちはどう行動すればよいのか。それがネイチャーポジティブの基本的な考えです。
──保護に終わらせず、回復への筋道につなげるわけですね。
「私たちは自然から何かを取り出し、製品に加工して消費することを続けてきました。ですが、その活動の影響は地球規模の環境問題を引き起こすまでになりました。資源利用を自然の回復力を後押ししながら使っていくような形に転換しないと、私たちの暮らしの基盤でもある生物多様性はもたない。ネイチャーポジティブは、危機意識を共有するための言葉なのです」
──やっとという感じもするのですが、たしかに画期的です。
「大きな特徴は目標値も含めた達成努力が数字で示されたことです。COP15の決定した昆明─モントリオール生物多様性枠組みでは、2030年目標として23の行動指針が示されたのですが(65ページ)、この中に30by30という言葉があります。2030年までに陸域と海域の保全面積を30%まで引き上げるというものです。
この目標に企業はどう関わっていけばよいのか。世界ではOECMと呼ばれ、日本では自然共生サイトと名付けられた自然保護地域に準ずる地域を認定する制度があります」
──自然共生サイトとは?
「多くの企業は土地を所有しています。そのような私有地で生物多様性を向上させる取り組みを行なえば、保護地域に準ずる取り組みとしてカウントできるのです。対象地の管理目的は自然保護が第一の目的でなくてもかまいません。管理のやり方を今までと変え、生態系に配慮した方法にする。たとえば緑地の植生を変えて生きものが集まりやすくすると、その企業のネイチャーポジティブの取り組み実績として評価されるわけです」
──もともと広い森林を所有している企業もあります。
「ポジティブという以上は管理の質をより高めることも大事で、それにより評価が上積みされます。日本自然保護協会では、企業や自治体と連携してネイチャーポジティブ向上のさまざまな取り組みを推進しています。
一例を紹介しましょう。群馬県みなかみ町では、三菱地所が企業版ふるさと納税のしくみを使って町に資金を提供し、森林再生を行なっています。この森はイヌワシの生息地なのですが、林業不振により森の活用が減った結果、伐採地が生み出す草地が減少し、イヌワシの狩り場も激減しました。
そこで資金を活用して森に手を入れ、昔のような植生を回復させています。こうした取り組みや、自然共生サイトを増やすことが、ネイチャーポジティブとして評価されていきます」
──ネイチャーポジティブに協力することは企業にとってどんなメリットがあるのでしょう。
「SDGsという言葉ができたことによって、多くの人たちが持続可能性の意味を理解しました。高まった意識は、人権や気候変動に配慮する企業かそうでない企業かを識別する指針になり、企業自身の行動を変えています。ネイチャーポジティブに期待される効果も同様です。この行動指針への取り組みは、企業ブランドの評価を左右するだけでなく、投資の格付けにも大きく影響します」
──投資先の決定は儲けの期待値で決まる印象があります。
「そのあたりもSDGs後は大きく変わっています。すでにESG投資という言葉が浸透していますが、運用上の倫理規定として公益を損なう企業には投資をしないことが明記されました。企業を格付けする金融機関自体も開示が求められ、社会から格付けされているわけです。
最近注目されている動きとしてTNFDというものもあります。自然資本や生物多様性に関するリスクを適切に評価・開示するための枠組みのことです。これから企業は、現在の気候変動対策と同じように、生物多様性への対策の開示を実質義務づけられるはずです」
──ネイチャーポジティブの概念は、日本の企業に今現在どの程度浸透していますか。
「大手の企業はかなり高い関心を持っています。COP14のとき、日本企業の参加者は指折りで数えられるほどでしたが、COP15には40名くらいが参加していました。金融機関の方が加わっていたのも特徴です。
環境に関する国際会議を15年間見てきた感想は、金融が加わると物事はこんなに早く動くのだなあ、ということです。
ネイチャーポジティブには、気候変動対策のノウハウが多数導入されているとも感じました。数字で目標が示されたことで、企業も金融も一気に動きだしたという印象があります。
日本の経団連の中でも、これまで脱炭素が中心だったGX(グリーントランスフォーメーション)に生物多様性を加える動きが出ています。大企業の行動姿勢は中小企業にも波及するので、注目すべき動きです」
欧州は農地を生態系としてデザインし直そうとしている
──COP15では農林水産業という基幹産業が生物多様性に与える影響も論じられています。
「世界の絶滅危惧種のうち、86%の減少要因は第一次産業や流通などの食料システムだという報告もあります。これらの問題をどうするかという議論の中で、欧州などは農地も生態系としてデザインし直すという考え方をとっています。
先日イギリスの動きを見てきましたが、農業補助を生物多様性とどのように組み合わせるかという方向に議論がシフトしていることを感じました」
──欧州は以前から環境共生型農業に意欲的な印象があります。
「さらに前へ進めようというのが今の流れです。リジェネラティブというキーワードがあります。たとえば不耕起栽培。日本だと特別な考えというイメージですが、産業として成り立つための政策が始まっています」
──日本にネイチャーポジティブを浸透させていくうえで大切なことはなんでしょうか。
「ネイチャーポジティブは、既存政策の見直しに加え企業活動が自然保護につながる〈産業の自然保護化〉です。回復を含めた自然保護がきちんとビジネスにならないといけません。
そこで大事なのは人材です。今までのように自然を保護するだけではなく、より積極的な働きかけによってマイナスからゼロに、さらにプラスへと回復させるには一定水準の知識と技術が必要です。そういったノウハウを持つスペシャリストは社会にはまだまだ少ない。
自然回復のスキルを持つ人たちの活動は、今までは多くがボランティアベースでした。この現状は変えていく必要があります。自然や環境問題に熱い思いを持つ若い人がプロとして能力を発揮できるしくみづくり。それも企業の役目だと思います」
──今後予想される世界的な動きはありますか。
「’24年にトルコで開かれるCOP16では、引き続きお金が話題になるでしょう。COP15ではネイチャーポジティブのための基金はできましたが、各国がどれくらい拠出するかという議論ができなかったので。その後にはなりますが、’25年にIPBESという国際機関が『ビジネスと生物多様性』というレポートをまとめます。気候変動に関するIPCCレポートに匹敵する研究報告となります。たとえば農林水産業や鉱工業などの活動が、自然環境や生物多様性に対してどのような影響を与えているかを、具体的・複合的、かつ全地球規模で数値化したレビューになるでしょう。
──かなり重みを持った環境報告になりそうですね。
「2030年、2050年後という時間軸で、それぞれの国や地域の生物多様性上のリスクが今後具体的に出てきます。ネイチャーポジティブへの取り組みはいよいよ待ったなしになると思います。
同時に、製品やサービスを利用する消費者側の生物多様性に対する意識も問われることはいうまでもありません」
道家哲平 流 ネイチャーポジティブ実現に欠かせない3つのアクション
1 買い物では、食べ物の旬と地産地消をつねに意識する
本来の季節ではない食材や遠い生産地の食材は、必要以上にエネルギーが使われている。旬と地産地消を心がけるだけでもそれを減らせる。
2 環境認証マーク入りの商品や信頼できる生産者を選ぶ
価格や見た目で商品を選ぶライフスタイルから卒業し、本質を大切にしている商品を贔屓にする。その志はラベルの裏を見るだけでもわかる。
3 自分の商品選択への想いを社会へ積極的に発信する
企業に対し自分はこういう商品を求めているという声をあげる。たとえ小さくても、直接的な意見はネイチャーポジティブを加速させる。
ネイチャーポジティブ実現に向けた[23の行動目標]
◉自然の危機に応えるために
1:地球上のすべての地域に生物多様性の配慮を拡げ重要な自然の損失をゼロに近づける
2:損なわれた自然の30%を回復させる
3:陸・水・海の30%を人と自然の共生する地域として守り、管理する
4:絶滅危惧種を守るための緊急の行動と、人と野生動物の衝突回避を進める
5:生物の捕獲や取引を持続可能にし、違法・過剰な利用をなくす
6:外来種の侵入を突き止め侵入と定着を半減させる
7:プラスチック汚染を減らし、過剰施肥と農薬のリスクを半減させる
8:自然に根差した解決策で気候変動の緩和と適応を推進、気候変動対策による自然破壊を最小化する
◉自然に根差した解決策で人々に恩恵をもたらすために
9:自然資源を持続可能に管理し、とくに脆弱な人々への自然の恵みを確保する
10:農業、養殖業、水産業、林業地域の長期的な持続可能性と生産性を確保する
11:あらゆる人々に必要な水・空気・土や自然の調整機能を守る
12:都市の緑地や親水地域を増やし、都市住民の健康と幸福を高める
13:遺伝資源から得られる利益の公正公平な配分のためのあらゆるレベルの施策を展開する
◉ツールや解決策を充実させるために
14:開発、貧困撲滅、環境アセスメントなどあらゆる法律・指針に生物多様性の視点を組み込む
15:企業や金融機関の行動や情報開示を支援し、企業リスクを減らし、企業による行動を増やす
16:市民の持続可能な選択を増やし、食料廃棄の半減や廃棄減少につながる法規則、情報提供を進める
17:遺伝子組み換えの適正な管理・利用の能力をすべての国が持つ
18:ʼ25年までに調査し、ʼ30年までに5000億ドル以上の負の補助金をなくす
19:あらゆる資源を集めて、毎年2000億ドル以上の実施資金を生み出す
20:実施のための能力向上、技術提供、科学技術の推進と活用をはかる
21:効果的な管理や運営と参加のための最新の知識・情報を届ける
22:情報、政策決定の参加、司法へのアクセスの機会を、先住民、女性、ユースに確保する
23:行動目標達成のための意思決定や行動を、ジェンダー平等の中で実現する
※「昆明─モントリオール生物多様性枠組み」(2022年)で明示されたネイチャーポジティブの原則(30by30)に関する条文を、道家さんがコンパクトに意訳したものです。
※構成/鹿熊 勤 撮影/藤田修平 写真提供/道家哲平
(BE-PAL 2023年12月号より)