トルコ南東部シャンルウルファ郊外の世界遺産「ギョベクリテペ」は、人類史の定説を覆す発見がなされた画期的な遺跡です。大自然の中で動物を追い野生植物を採集していたアウトドア古代人は、楔形文字もないシュメール以前の時代に何を思い、かくも壮大な遺跡を作り上げたのでしょうか。2023年秋に現地を訪れた金子浩久(日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員・BE-PAL選出)が、世界遺産の魅力をリポートします。
毎日がアウトドアライフだった狩猟採集時代
中学校の歴史の授業で「“社会”というものは今から1万年前に誕生した」と習ったのを憶えています。人類は原始以来の長い狩猟採取時代を経て、次の段階として定住して農耕する段階に入って“社会”というものが初めて生まれたのだ、というのが教師の説明でした。
1万年というキリの良さもあって、その授業のことは忘れませんでした。また、最新の研究では現代の人間の祖先がアフリカに生まれたのが20万年前のことだそうです。そこから19万年が経過して、ようやく動物とは違った人間らしい“社会”を生み出すことができたというわけです。
1万年前と聞いても現代と違い過ぎていますが、あれこれと想像することはできます。
社会ができる前の人間は、獣を追い掛け、魚を捕り、果実や木の実など自然界に生息している動植物を捕獲したり採取して食料を得ていました。あるものを取って、食べるだけ。獲物を追い掛け、季節に応じて移動しながらの生活だったのでしょう。必然的に捕獲量に応じた家族や少人数のグループでなければ一緒に行動できなかったはずです。
狩猟や採集のための原始的な道具を使いながら、動物を仕留める知恵は有していましたが、それ止まりでした。現在の僕らのライフスタイルから見れば、熊や狼など敵となる大型動物や、嵐や寒気などの自然現象に翻弄されながら食べていくのに精一杯で、起きている時間のほとんどが食料を確保するために費やされていたのでしょう。
農耕が始まり社会が生まれ、人の心も変化した
それが、さまざま複合的なキッカケから「農耕」というものを行なうようになりました。自分たちで土地を耕し、そこに種を植え、水や肥やしを与えて生育させ、実りを収穫するという作業を覚えたのです。牧畜も同様でしょう。それまでは狩る一方だった獣を飼い、餌を与えて大きくなるまで育てるという正反対の発想ができなければ始まりません。
住むところも正反対の場所になります。獲物を見付けるのと同時に、マンモスや熊、狼などから身を守るために森林や洞窟などを転々として生活していたのが、“定住”という文字の通り農耕のために畑のそばの同じところに住み続けなければならなくなります。
まったく反対の暮らしぶりですから、暮らしと精神に劇的な変化をもたらすことになるわけです。もちろん、その変化が一朝一夕になされたわけではないでしょう。畑を耕すことを覚えた人々が、ときどきは狩猟採取する“半農半漁”スタイルを採っていたのかもしれませんし、地域差もあったでしょう。
農耕が始まったことによって、大人数の集落が生まれます。農耕は一人でいくつもの仕事を行なわなければならない反面、大人数で力を合わせないと一番大切な収穫を一気に行なうことができません。
定住すれば、世代交代も行われます。“家族”や“一族”という意識も強く持つようになるでしょう。記憶も留まり、先祖を敬う気持ちもより強く意識されていったはずです。
農耕による実りを確実に得るためには、自分たちの努力ではどうにでもなることばかりではないことも、また知ったでしょう。たわわに実った作物が台風や寒気、虫害などによって全滅してしまうこともあったはずです。眼に見えないものや予測できないもの、強くて大きくて自分たちの知恵と力だけでは太刀打ちできない存在を認識するようにもなります。病や死などを忌避する感情も強くなっていったことでしょう。
約1万2000年前、世界最古の神殿「ギョベクリテペ」
トルコ南東部の遺跡「ギョベクリテペ」を訪れ、遺跡を前にしている間中、そうした想像が止まりませんでした。
ギョベクリテペが大発見と言われ世界遺産に登録されるようになった理由も、そこでした。
ギョベクリテペを管轄するシャンルウルファ市文化観光局 局長のエイディン・アスランさんが、説明してくれました。
「ギョベクリテペは今から約1万2000年前から1万年の間に造られたことが明らかになっています。ギョベクリテペとその周辺には、人々が生活していた痕跡がないので、祈祷や信仰のための施設、神殿だったと考えられています」
アスランさんは、ギョベクリテペで発掘された巨石を削ったT字型の石碑のレプリカの前で説明しはじめました。
「従来の学説では、人類が信仰を行ない、宗教のようなものが生まれたのは定住農耕生活が行なわれてしばらく経過してからだと言われてきました。
しかし、ギョベクリテペを調べていくと、そうではなかったことがわかります。まだ定住や農耕が行なわれていなかったはずの1万2000年前にもかかわらず、人々は集団で巨石を運び込んで切削し、この施設を造り、祈りを捧げていたのです。
考古学上の定説とは異なり、人類は定住農耕生活に入る前から信仰を持ち、大規模な集団生活を行なっていたのです」
人々の感情を駆り立てたものは何だったのか
ギョベクリテペには近くのシャンルウルファの街からバスで1時間弱で到着しました。新しく建てられたビジターセンターは立派なもので、ここでじっくりと展示や映像などに接しておくと理解が深まります。ミュージアムショップも充実していました。
ビジターセンターからギョベクリテペまではマイクロバスで数分間。なだらかな丘の上にキャンバスの屋根が張られ、その下に発掘された遺跡群が姿を現わしています。「ギョベクリテペ」というのは、トルコ語で「太鼓腹の丘」という意味。
キャンバスの屋根のある周囲にも発掘途中の遺跡もあり、それらを含めてもおそらくは全体のまだ5%程度しか発掘されていないそうです。
遺跡の周囲には見学用の回廊が一周分整備されており、そこから覗き込むことができます。さきほどビジターセンターで見た3メートルを越す大きな石をT字型の板状に加工した石碑が、同心円状に並べられているのが見えました。その同心円の中心部分にはさらに大きなT字型の石碑が向かい合うように並んでいます。石碑の表面には動物などの模様が彫られているのも見えます。
全体を見渡すと、その同心円プラス大きな石碑のセットが5つ見えました。これは自然にできたものではなく、どう見ても人間が造ったものに違いありません。規則的に並んでいる様子や表面の動物の彫刻なども人間の手によるもの以外に考えられません。
そして、これも想像ですが、こうした大きな岩を使った何らかの“施設”を造るためには、大勢の人間が長い時間を掛けて計画的に推進する必要があります。
山などで岩を見付け、切り出し、運ぶ。T字型に切削し、表面に動物の彫刻を施す。それを立て、意味のある位置に並べる。機械や道具のほとんどない時代には、きびしい重労働です。
そして、単に岩を運ぶ力があって、彫刻が彫れるだけでも完成しません。計画し、人々を手配し、スケジュール通りに進行しているか確かめる管理の仕事もあります。今の言葉で言ってみれば“プロジェクト”ですから、リーダーがいたはずです。さらに想像してみれば、この遺跡が原始的な信仰のために建てられたものだったとすると、その信仰そのものを司っていた祭司、あるいは教祖のような人物が存在していたのではないでしょうか?
そうでなければ、人々を建造という重労働に動員することはできません。精神的な支柱となる人物がいたのではないでしょうか?
ただ祈るだけでなく、“祈るための場所が必要なんだ”という共通認識や共同幻想のようなものを集団の全員が共有していなければ人々は動かないでしょう。そこに想いを託せたからです。祭司のような人物が信仰を背景に施設の建造をアジテートしなければ、人々の感情を駆り立てることはできないからです。
ギョベクリテペの本格的な発掘は1996年から始まり、現在も続けられています。次なる発掘や、発掘技術の進化などによって今後、さらに決定的な発見も予想されます。現在進行形の遺跡ですから、眼が離せません。“シリア国境に近いトルコ南東部シャンルウルファ郊外のギョベクリテペ遺跡”という固有名詞がニュースを賑わせる時も遠いことではないのかもしれません。