五大文明発祥の地、チグリス川・ユーフラテス川の源流を有するトルコ。世界屈指の古い歴史をもつ国ですが、現在のトルコ共和国が生まれたのは1923年。日本では関東大震災があった年です。日本と同様、近代化にいたる道筋で西欧列強の圧力にさらされ、あわや植民地化されそうな危機を生き延びて独立を勝ち取りました。その立役者がトルコ共和国初代大統領ケマル・アタテュルクです。イスタンブールにある「アタテュルク博物館」を訪れてみると……。
建国の英雄ムスタファ・ケマル・アタテュルクとは
2023年に建国100周年を迎えたトルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクのミュージアムがイスタンブールにあると聞いたので、見学してきました。
場所は、ヨーロッパ側の新市街中心部のオスマンベイ。地下鉄のメトロM2線のオスマンベイ駅の近くにあります。ハラスカルガツィ通りという大通り沿いです。
何か事件が起きたり、選挙が行なわれたりしてイスタンブールが世界から注目されるニュースの際に、決まって特派員がマイクを握ってしゃべる映像が中継されることの多いタクシム広場の北側です。オスマンベイ駅はタクシム駅のひとつ隣駅ですので、多くの人々が行き交う賑やかなところ。
実際に行ってみると、タクシム広場を越えたその辺りは観光地とは違った大都市イスタンブールのリアルな生活が感じられる繁華街でした。
高いビルの間に小さな商店や飲食店などもたくさん営業していて、雑然としながら活気がある地域です。同じ新市街と言っても、モダンで高級なレストランやホテルなどが連なるベベック地区やベイオール地区、あるいは歴史的な建物が並ぶ旧市街などとはまるで対照的な生活感あふれる地域です。
列強による植民地化を間一髪で免れたトルコ
アタテュルクは今日(こんにち)のトルコの礎を築いた初代大統領で、今でも国民から絶大に支持されていることは、命日の1分間の黙祷と街中にあふれるさまざまな肖像について書いた前回の記事の通りです。
そのミュージアムなのですから、さぞや立派なものが立っているのではと期待していったのですが、それは見事に打ち砕かれました。隣の建物と見間違えてしまいそうなほど幅の狭い、この辺りならばどこにでもあるような特色のない古い3階建てだったのです。
あまりに小さくて拍子抜けしました。それもそのはず、ここはアタテュルクが軍人としてイスタンブールに赴任した時に、家族と住んでいたアパートメントの建物をそのままミュージアムとして活用しているからでした。
入り口も手荷物のX線検査機があって、係員がひとりいるだけです。入場無料なので、自分のバッグをそれに通すだけで入れました。1階奥のロビーにはアタテュルクの胸像があります。主な展示は、そこから急な階段を登った2階と3階にありました。
階段で2階に上がって対面するのは、ビットリオ・ピサーニという画家による10枚の連作絵画「トルコ独立戦争」です。アタテュルクはトルコ独立戦争の英雄だからです。
第1次世界大戦を同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア)として戦ったオスマン帝国は、イギリス・フランス・ロシアの連合国軍に激しく攻め込まれます。そんななかで1915年、オスマン帝国軍の指揮官アタテュルクが、イギリスの海軍大臣ウインストン・チャーチル(のちの首相)が計画した連合国のガリポリ半島上陸作戦を阻止し、その後、ギリシャトルコ戦争(1919~1922)の重要な戦いであるサカリア川の戦いで、激戦の後にギリシャ軍を追い返し独立を勝ち取っていくことになります。いずれの戦いも、植民地化されるか独立を守りきるかの瀬戸際でした。列強の野望を砕いたアタテュルクの功績について、九州大学大学院准教授・小笠原弘幸氏は近刊『ケマル・アタテュルク オスマン帝国の英雄、トルコ建国の父』で次のように述べています。
《列強による祖国分割を阻止せんとして立ち上がった愛国者たちを糾合し、その指導者となったのがムスタファ・ケマルであった。第一次世界大戦において、チャーチルが立案したガリポリ上陸作戦を食い止めるという殊勲の勝利を挙げたケマルは、軍事的才能にあふれる英雄として、カリスマ的な評価を得ていたのだ。ケマルのもとで国民は奮闘し、ギリシア軍を激戦のすえ追い返して、列強の野望を打ち砕くことになる。中東のムスリム(イスラム教徒)諸国がほぼすべて植民地となったなか、列強の描いた世界の分割支配に異を唱え、それを修正させたのは唯一、ケマルとその同胞だけなのであった。》(小笠原弘幸著『ケマル・アタテュルク オスマン帝国の英雄、トルコ建国の父』中公新書・2023年刊より)
イスラム帝国を脱し政教を分離。西欧文明の一員へ
1299年頃から1922年まで長きにわたって中東およびその近隣の広大な地域に君臨していたオスマン帝国が滅亡した1923年、ケマルはトルコ共和国を建国し、初代大統領に就任しました。
大統領に就任したアタテュルクが行った改革はいくつもありますが、そのうちのひとつが文字改革でした。それまで使用されていたアラビア文字を、西欧社会で使われているラテン・アルファベット文字に切り替えたのです。それには背景となる理由がある、と『ケマル・アタテュルク オスマン帝国の英雄、トルコ建国の父』では述べられています。
《1928年4月9日。議会は、憲法からイスラムについての文言を取り除くことを決定する。これによって、イスラムはついに国教の座を失った。オスマン帝国とイスラムという古い権威は、すくなくとも表面上は一掃された。世俗国家として新たなスタートを切ったトルコ共和国の国民のために、ケマルは新しい拠り所を用意する必要があった》(前掲書)
その“拠り所”のひとつが、文字改革だったというわけです。
《文字改革の実際の効果をはかることは難しいが、トルコ共和国は西洋文明の一員であるという文化的イメージをつくりだしたのは間違いない。》(前掲書)
『ケマル・アタテュルク オスマン帝国の英雄、トルコ建国の父』には、アタテュルクが国民にアルファベットを教えている写真が掲載されています。どこかの庭か公園などでトルコ国旗がたくさん掲げられた下に屋外用の黒板が置かれ、中央に縦に線を引いた左にアルファベット文字を書き、右にアラビア文字を書いて、アタテュルク本人が聴衆かメディアと思われる人々に実演して示しています。
ミュージアムのガラスケースの中には、メモが記されたノートも展示されていました。アルファベット26文字が頭文字となる単語がひとつないしは二、三ずつ列記されているのは、アタテュルク自身が憶えようとしていた痕跡なのか、それとも誰かへの説明のためだったのか?
別の本には、次のように書かれています。
《1928年の憲法改正で国教の文言が削除され、1937年の改正でトルコは「世俗的(laik)」な国家と規定されたのである。それ以降、トルコにとって世俗主義(ライクリキ、laiklik)は国家イデオロギーの主柱となったが、実は世俗主義とは何かについて憲法は細かく規定していない。その結果、イスラムが公的領域において可視化されてはならないという点が、建国の父ムスタファ・ケマル・アタテュルクが決めた国家の絶対的な原則として強調されたのである。》(内藤正典著『トルコ 建国一〇〇年の自画像』岩波新書・2023年刊より)
英雄の遺品でトルコを知る
3階には実際に使われていたベッドルームや執務室などが移築され、使われていた帽子やブーツ、軍刀、ピストルや手榴弾などまでガラスケースに陳列されています。
勲章の類は無数あり、水筒やシガレットケースなどまでもあります。
何種類かの礼服などのほか、私服や靴なども何点か展示されていました。ツイードのノーフォーク風スーツなど現代でそのまま着てもまったくおかしくないほどです。どれも既製品ではなく、専用に仕立てられたものでしょう。
アタテュルクはハンサムなので、どの肖像もカッコ良い。軍人出身なので軍服や礼服姿が似合っているのは当然としても、普通のスーツやジャケパン姿もキマッています。
アタテュルクミュージアムには圧倒されるようなものや眼を見張らされるようなものはありません。ほとんどが遺品です。フロアの登り下りには階段しかありませんし、広いわけでもないのですぐに見学し終わってしまいます。展示の説明パネルのすべてが英文併記されているわけではないので、細かなところは想像するしかありません。今様のミュージアムに必須のミュージアムショップもありませんでした。
それでも行ってみて収穫となったことは間違いありません。アタテュルクという人物とトルコという古くて新しい国を少しでも理解するためのキッカケを授けてくれました。便利な場所にありますし、素朴な展示にも好感が持てます。世界遺産やグルメ、買い物など予定調和的なイスタンブール旅行に飽きたら訪れてみることをお勧めします。
なお、パルテノン神殿のように立派なアタテュルク廟はイスタンブールから離れた首都のアンカラにあります。