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第20座目「椿山」
今回の目的地は、ホテルや結婚式場として知られる椿山荘です。なぜ、この連載で取り上げるのかといえば、もちろん、そこに山があるから(もしくは、そこに山らしきものがあったから)です。
椿山荘の歴史は南北朝時代に遡るのですが、詳しい経緯は公式サイトに譲ります。椿山荘のあるエリアは古くから椿が自生する景勝地だったそうです。椿が咲く山として「つばきやま」と呼ばれ、江戸時代には久留里(くるり)藩黒田家の下屋敷が あったとか。つまり、庭園などが整備される前から、椿山だったのです。
神田川越しの眺望と俳人の足跡
今回の登山口は、有楽町線江戸川橋駅登山口です。 地図を見て歩きたいなと思ったのが江戸川沿いの遊歩道でした。 有楽町線江戸川駅を下りて、まずは江戸川公園を目指します。公園の入り口を抜け、江戸川沿いの遊歩道を歩いていきます。公園の入り口にはトイレや ベンチがあり、多くの人が休んでいました。
山行当日は公園内で工事があったので、橋を渡って迂回しましたが、帰りには工事は終わっていて、また歩けるようになっていました。遊歩道側から椿山荘に入れそうでしたので、しばらく江戸川沿いに歩いていきます。
さらに歩いていくと、椿山荘の入り口、冠木門があるのですが、現在は閉鎖されており、ここから椿山荘方向には入れない様子でした。 門の隣には椿山荘の素敵な料亭があり、その並びには関口芭蕉庵があります。 関口芭蕉庵の芭蕉は、あの松尾芭蕉の事です。
芭蕉が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間住んだのがこの地だったそうです。旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場である水番屋に住んだといわれています。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」(りょういんあん)という家を建て たそうで、これが現在の関口芭蕉庵となったようです。
まさか、江戸時代のハイカー、ハイク(HIKE)の先人である芭蕉の足取りに出会うと は思いませんでした。芭蕉が神田上水の改修工事に携わったのも驚きです。
その関口芭蕉庵の角を曲がると、見上げるような坂があります。 坂下に水神社(神田上水守護神)があるため、別名、水神坂とも呼ばれるそうです。 坂が険しく、自分の胸を突くようにしなければ登れない事から、胸突坂と命名されたそうです。
その通りを進むと、先に椿山荘が見えてきます。十分に高い丘です。何か山頂の痕跡のようなものは残っていないかとキョロキョロしていると、椿山荘の敷地方向の歩道脇に案内板が設置されているのを発見しました。
そこには「この地は以前から椿が多く自生し、神田川を隔てた早稲田田圃を一望できる景色がすばらしく『椿山』と言われた」という一文がありました。やはり、この椿山から「田圃を一望できる景色」が楽しめたんですね。
ひょっとして、芭蕉も椿山山頂からの眺望や周辺で咲き誇る椿を目にしたのだろうか…。そんなことを思いながら、偉大なハイク(俳句)の先達である芭蕉の足跡が秘かに残る山を後にしたのでした。
次回は「文京区の肥後細川庭園」を予定しています。
なお、今回紹介したルートを登った様子は、動画でご覧いただけます。