富山県、岐阜県、新潟県、長野県にまたがる北アルプス(飛騨山脈)は、登山者にとって魅力的な山々が名を連ねるエリアだ。とはいえ、冬に北アルプスに登るとなると、十分な経験と周到な装備が必要なことはいうまでもないだろう。
今から433年前、厳冬期の北アルプスを踏破した男がいた。もちろん登山家ではない。その男の名は、戦国武将で富山城主の佐々成政(1539~88)である。
佐々成政肖像
彼は、織田信長に仕えて数々の合戦で功を挙げ、越中(富山県)一国の領主に出世する。ところが信長が本能寺の変で斃れると、同じ織田家家臣である羽柴(豊臣)秀吉が天下の覇権を掌握することとなる。
そこで秀吉に待ったをかけたのが、信長の子の織田信雄と徳川家康であった。天正12年(1584)3月、織田・徳川連合軍は、尾張(愛知県)北部で秀吉軍と合戦に及ぶ(小牧・長久手の戦い)。遠く越中にあった佐々成政は、信雄と家康の誘いに応じて秀吉打倒に立ち上がり、秀吉側の前田利家が治める加賀(石川県南部)に攻め入った。
ところが11月になると、信雄と家康は秀吉と和睦して戦いをやめ、成政は前田利家と戦い続ける名分を失ってしまう。さらに見回せば周囲は敵ばかりで孤立無縁の状態である。「誘っておいて、それはないだろう!」と成政が憤激する気持ちもわかる。そこで成政がとった行動は、三河(愛知県)の浜松城にいる家康を訪ね、秀吉との戦いを継続するように説得することだった。
西の加賀には前田が立ちはだかり、東の越後にはやはり敵対する上杉景勝がいる。南の飛騨(岐阜県北部)を越えても美濃(岐阜県南部)は秀吉の勢力圏であり通過は不可能だ。そこで残された唯一のルートが、北アルプスを越えて家康の勢力下にあった信濃(長野県)に入り、三河へと至るものだった。
11月下旬(新暦の12月下旬)、成政は伴の者を従えて富山を極秘裏に出立(同行の人数は数名から100名以上まで諸説あり)。現在の富山地方鉄道沿いに進み、立山連峰の山襞へ分け入っていった。おそらく気温はマイナス十数度、積雪は1メートルを超えていただろう。成政らは、「輪かんじき」という直径約60センチの円形をした雪道用の草鞋を履き、衣服の中に防水性の高い紙を入れ込み、雪除けに蓑をまとったと考えられる。道案内は立山の修験者を起用したらしい。当時最高のスノーウェアの装備と優秀な山岳ガイドを擁して厳寒の山越えに挑んだといえる。
一行は、難所のザラ峠(標高2,342m)を越え、黒部峡谷の黒部川を渡河し、さらに越中と信濃の境にある針ノ木峠(2,536m)を越えて、信濃大町に至った。途中、凍傷で動けなくなった者、滑落して命を失った者もいて、半数近くが脱落したという。
『富山城雪解清水 信越境更々越』画/豊原国周 明治時代に作られた、佐々成政の生涯を主題とした歌舞伎を描いた錦絵。
命がけで北アルプスを越えた成政一行が浜松に着いたのは12月下旬だった。しかし、家康にとって成政はまさに「招かざる客」であり、成政の熱弁は浜松城内に虚しく響くだけだった。説得は徒労に終わり、成政はふたたび富山へ帰っていった。帰路もまた北アルプスを越えたとも、越後を隠れながら通過したともいう。そののち成政は秀吉に下るが、最後は失政を責められ、切腹して果てる。
成政の北アルプス越えは、後世に「さらさら越え」と称されて英雄伝説となった。そのため、成政が本当に山越えしたかどうかを疑う向きもある。しかし、状況から考えれば、成政が進む道は北アルプスしかない。
雪山の難路の中、成政が家臣らを鼓舞したという言葉が伝わる。
「矢玉繁き所に立つよりは遥かに易き道なるぞ」(矢玉の飛び交う戦場に比べれば、こんな道はたいしたことはない)
佐々成政の北アルプス越えは、日本の登山史上の壮挙といえるだろう。
構成/内田和浩 写真所蔵/富山市郷土博物館