チョウを採りに、ふたたび北海道へ
初めて北海道の林道に行って、オオイチモンジ採集を試みた7月上旬は、ネットに入れた1頭に逃げられました。
その後は、頭の中をオオイチモンジが飛び回る日常生活を送っていました。
しかしなんという偶然か、1回目の北海道遠征の10日後に、前回影も見えなかった林道に行くチャンスが巡ってきました。
以下記録ノートから。
ふたたび北の林道にて
空には流れるように雲が動き、刻々と翳ったり晴れたりを繰り返す。晴れていると極楽のように美しいが、翳ると風がうそ寒く、一体自分は何をしているのかわからなくなる。
翳っていても目をこらすとシロオビヒメヒカゲが草に休んでいるのがわかる。
灌木の上を悠々と飛んでいるのはエゾシロチョウ。しばし晴れ間が続くと、チョウはあちこちから現れるが、翳るとぴたりといなくなる。ヒメカラフトヒョウモンやヤマキマダラヒカゲ、コヒオドシ、キベリタテハなどが一頭また一頭とやってくる。
前回来たおよそ10日前と確実にチョウの種類が違っている。前回はカラフトヒョウモンがいたのに、今回はほとんどいなかった。コヒオドシは前回よりもやけに多い。
しかしあいかわらずオオイチモンジの影はなかった。
人生で初めて捕らえたオオイチモンジ
崩落地の手前に次々と蝶が降りてくるのを見た。よし、あそこを見てから戻ろうと、その場所に向かってみた。そこは地下水がしみ出しており、いろいろな種類のチョウが吸水に集まっているのだ。雲も途切れて日光がさんさんと降り注いでいるなか、チョウは来て、無警戒で吸水し去っていく。
私が動くときだけ、面倒くさそうにふわりと場所を移動するが、また降りて吸水に夢中だ。
その様子をしばらく見て、クルマに引き返すことにした。
そして最後にもう一度振り返ったときだ。やけに大きくて黒いチョウが地面に留まっているのが見えた。
高鳴る動悸を押さえ、小走りに近づいた。間違いない。オオイチモンジのオスだ。相手は夢中で吸水している。いったいどんなミネラルがしみ出しているのであろうか。陽に反射する後翅外縁のメタリックブルーとオレンジの斑紋が美しい。
網をかぶせた。
前回の失敗があるので、落ち着いて落ち着いて。
三角紙に収めるまで緊張は解かなかった。
ようやく三角紙に入れた。
ふと網膜の端に、またしても黒く大きい蝶の影をとらえた。二頭目だ。ミネラルを含む地下水は彼らにとってどんな味がするのだろう。危険を察知する本能を無視できるほど甘美な味わいなのだろうか。二頭目はそれほどの緊張感を感じなくとも、採取に成功した。
虫屋の素人と玄人
小さい川に架けられた橋の脇に立っている人がいた。
長い物干竿ほどの網をもって長靴という、正装をした若い男だった。
私は挨拶しようと助手席のガラスを下ろすと、彼は咎められた者のように小走りに近づいてきた。いったいに我々は、林道でふいに声を掛けられると、よからぬことを言われることがあるのだ。悪いことをしていなくても、心のどこかで人に見咎められやしないかと警戒心をもっている。
「採れましたか?」
「いやあ、見えるんですけど、なかなか下りてこないですね」
男は緊張を解いて答えた。
最初の「採れますか?」という私の問いは、当然ながらオオイチモンジのことだ。それに対する彼の返答がよくわからない。
それからふた言三言交わして、漸く意味がわかった。
それはオオイチモンジでも、メスの採集を目指している人なのだ。
私は初心者で、偶然が重なってこの玄人好みの林道に紛れ込んでいるだけであって、彼がなぜオスではなく、メスを狙っているのか、このときにはわからなかった。
私が「あっちのほうにいっぱいいますよ」と親切心から言うと、早くもこちらの素人度があらわになると同時に、先ほどまでの恐縮していた態度が少し改まった。
タバコに火をつけてから、いろいろとオオイチモンジの習性を教えてくれ、果ては林道をやるときは長靴がいかに素晴らしいかを、素人相手に教えてくれるのだ。
虫屋の先輩たちは、オオイチモンジはメスのほうが一層美しいとされている。オオイチモンジの名前の由来は、翅の表側に流れるような白い線にあるだが、メスのそれは、オスよりも太くしっかりとしていて、全体の模様を引き締めている。大きさもメスのほうが大きい。
オスは林道に下りてきて、水を飲んだり、獣糞にたかったりするが、メスはそれをしない。男が長い物干竿を持っているのは、高い樹冠を飛ぶメスを採るためだったのだ。
別の場所で、やはりメスを狙っているという年配の人がいた。その人は匂いを出す特別なペーストを樹に塗り、メスが下りてくるのを待っていた。
羽化したばかりのスレていないメスは標本にして、スレているものは、生かして持って帰り、交配させるのだそうだ。
私と話している間も、その人の目はずっと宙を泳ぎ、メスの姿を探している。
回転寿司を前に会話をしているようなあんばいだ。
そして話の途中で「来た」と網を持ち直す。
その網の直径は1メートルはあろうかというもの。匂いのついた樹に抜き足差し足で近づき、下りてきたメスに、えいっと網をかぶせた。
しかし、網の大きさがアダとなって、メスは苦もなく幹と網の間から抜けていってしまった。
ばつが悪そうなおじさんと私は、挨拶して別れた。
オオイチモンジ採集は時期が大事
余談ですが、このあと、私は何年にもわたって、7月の北海道に行きました。
あれほど情熱を注いで翻弄されたオオイチモンジですが、やがて時期さえ間違えなければ、わりと苦労せずに出合えるということがわかりました。
うれしいような悲しいような。これもまた夏に学んだ「人生の大事なこと」でした。