FILE.79は、江戸川区にある浮州浅間神社です。
第79座目「浮州浅間神社」
今回も初の登山口、都営新宿線船堀駅です
今回の登山口(最寄り駅)は、都営新宿線船堀駅。今回は北口からの出発です。
歩き出してすぐ、北口出口付近でイベントが行われていました。ポスターを見てみると、山形県鶴岡市の観光物産市でした。どうやら江戸川区と鶴岡市は友好都市になっているようです。納得、納得。
僕は山形に暮らしていますが、東京で山形に関する事柄に遭遇すると、つい反応してしまいます。鶴岡市は僕が住む山側ではなく、海側に位置します。海の幸がおいしいところで、僕は、釣りに行くと必ずイカの一夜干しを買います。残念ながら今日は東京。買いたい気持ちをグっと抑えて、先へ進みます。
控え目な「イエーイ!」とのうれしい出合い
歩いていくと、右手にポツンと焼き鳥屋さんが見えました。看板に「なかふじ船堀店」とあります。道路を挟んで向かい側を歩いていたのですが、結構人もいて賑わっていました。なにより値段が安い。東京なのに地方価格です。船堀店ということは他にもあるのかと調べてみると、新小岩と砂町銀座に、「惣菜かなふじ」があるようです。どちらのお店も安くておいしいと評判でした。
通りをそのまま進んでいきます。奥には大きな団地、右手にも団地。ネタになるようなことが無い住宅街かと、恐怖心を抱きます。まだまだ先は長いと言い聞かせて歩いていると、後ろから若い女性の話し声が聞こえてきました。2人は自転車ですぐ僕を抜いていきましたが、そのすぐ後、振り返らず手を上げて「イエーイ」と動画撮影用のインスタ360にポーズをしてくれました。
このTOKYO山頂ガイドも今回で79回目にもなるのですが、東京の方はシャイなのか、これまで撮影しているカメラに写りこもうとする人はいませんでした。今回初めて写り込んでくれたのです。このときの様子は下に貼ってある動画でご確認ください。また、もしインスタ360で撮影している僕を見かけたら気軽に写りに来てくださいね!
テレビCMでもおなじみの人気スポットを通過
そこから通りを進むと新荒川葛西堤防線にぶつかるので、北へ歩きます。しばらくは住宅街が続く道のりでした。なんとなく焦りが無かったのは、目的地まで距離が結構あるので何かしら見つかるだろうという余裕だったのかもしれません。
道なりに進んでいくと、係員がたくさんいる大きな建物が見えてきました。よし、ネタ確保!と思ったのはいうまでもありません。その大きな建物は、テレビCMでも見る競艇場、BOAT RACE 江戸川でした。
1955年(昭和30年)8月12日に初開催。江戸川区にある競艇場ということから江戸川の名が付いているのですが、実際にレースが行われているのはなんと中川だったりします。ギャンブルをしない僕にとっては来ることのない場所の1つ。けっこう人が多く、20代前半と思わしき女性の姿もありました。いつも見かけるテレビCMの影響って大きいのかもしれませんね。
BOAT RACE 江戸川の目の前にあったのが「富士食堂」です。競艇を楽しみに来る人たちで賑わっているお店です。僕にとっては、富士塚に行く前の「富士」食堂なので、なんとなくご縁を感じました。
驚くのは、ワンカップがそのまま出てくる感じと、営業時間が9時30分~16時30分頃で、12レース終了後の閉店という斬新さ。明るいうちからお酒を飲めない僕にとっては異次元です。もちろん、定食屋さんなので、定食も食べれますよ。あの独特の雰囲気を味わいたい方はぜひ!
ようやく目的地の神社と富士塚(?)へ
富士食堂を抜けると、再び住宅街に迷い込みます。こっちかな?あっちかな?迷いながらも進むと、目的地の白鬚神社と思わしき場所の裏手に着いたのでした。あれ、表にはまわるには…と思っていると、横幅50cmほどの細い道を発見。そのまま進んでいくと、無事に白髭神社の正面にたどり着いたのでした。
白髭神社
東小松川白髭神社の創建年代は不詳ですが、建治年間(1275-1278)の創建と伝えられ、東小松川香取神社や浮洲明神社と共に旧東小松川村の鎮守社であったといいます。中川放水路の開削に伴い浮洲明神社を境内に遷座しています。この浮洲明神社は多くの漁業民があがめ、敬っていたそうです。
浮州浅間神社
創建年代は不明。ただ「739年(天平11年)」の銘が入った鏡があることから、かなり歴史がある神社であったと思われます。東小松川村の飛び地の鎮守であり、善照寺が別当寺だったそうです。1648年(慶安元年)に、江戸幕府第3代将軍徳川家光より社領6石を賜っています。合祀後も、摂末社の形式で残されています。
境内の解説板に記された伝説によると、「浮洲はもとわずかな寄洲で、漁猟に出る舟はここで潮待ちすることになっていたが、ある時貝取りの舟が潮待ちしていると、浅間(木花咲耶姫神)さまのお札が流れついた。そこで漁師が砂をかき寄せそこにお札を納めて置いたところ、いつしか浮洲となり、やがて浅間神社が建てられるようになった」そうです。
白髭神社の脇に、浮州浅間神社があります。しかし、上の写真を見ると明らかですが、その風貌はこんもりとした富士塚ではなく、ボク石(溶岩)もなく、ただ石祠が鎮座しています。
そもそもこの浮州浅間神社の近くには、昔から水害が多かった中川が流れています。個人的な推測ですが、ひょっとしたら長い期間に何度も水害に遭う中で改修や移転などを繰り返し、浮州浅間神社は現在の姿になったのかもしれません。
富士塚っぽい山らしい姿ではありませんが、時代の波をくぐり抜けて今も浮州浅間神社が残っているのはありがたいこと。そう思い、今回の山行を終えたのでした。
なお、もし浮州浅間神社の由来や変遷について詳しくご存じの方がいらしたら、ぜひご一報下さい!
次回は江東区の砂町の富士塚です。