FILE.91は、足立区の大川富士です。
第91座目「大川富士」
今回の登山口は、東京メトロ日比谷線、千代田線の北千住駅です
今回の登山口(最寄り駅)は、東京メトロ日比谷線、千代田線の北千住駅仲町出口。前回と同じ登山口ですが、今回は北上して行きます。
次々と現れる寺社仏閣
前回と同じくビルの中を抜け、千住ディープゾーンに突入。軒を連ねる飲食店街から、さらに路地へと入っていきます。路地を進むと左手にお寺がありました。金蔵寺です。
境内に入ってすぐ左手に南無阿弥陀仏・無縁塔と刻まれた石塔があります。2基とも足立区登録有形文化財になっています。南無阿弥陀仏と刻まれている塔は、千住遊女供養塔です。千住宿の飯盛旅籠(めしもりはたご)で働き、病気などで死亡した飯盛女の霊を供養するために、当時の楼主(ろうしゅ)や宿場の人達によって建立されたそうです。
もう一つの無縁塔と刻まれている塔は、1837年(天保8年)の飢饉の際に飢えのために亡くなった人々の供養塔だそうです。碑文によると、お救い小屋で食糧が与えられたそうですが、千住で病死・衰弱死した者は828人にのぼったそうです。
事前に地図で見ていてこのお寺に寄りたいなと思い、ちょっと遠回りになりますがこのルートを選んだのでした。来た道を少し戻りつつ、北上していきます。
今回はルート上で多くの神社を見かける道のりです。さすが、千住は古くからの宿場町です。
続いて見かけたのは、路地にひっそりと佇む東伏見稲荷神社です。
東伏見稲荷神社を過ぎると、千住ほんちょう商店街、宿場通り北千住サンロード商店街へと続いていきます。休日という事もあり、多くの人で賑わっています。
北千住サンロード商店街から路地に入ると、また、小さな神社を発見しました。柵で覆われていて、入れないようになっていました。見た感じ、おそらく個人宅にあるお稲荷様なのかもしれませんね。ただ、一般の個人宅にあるお稲荷様と違うのは、Googleマップに出ているところでしょうか。
稲荷神社の細い路地を通り大き目の道を北上すると、また一つ、今度は一般的なサイズの神社が現れました。
千住本氷川神社です。この神社、ただの神社ではないのです。
なんと、ラジオ体操発祥の地なんです。ちなみにラジオ体操は現在も行われていて、年中無休で午前6:30〜6:40の間で行っているそうです。「聖地」でラジオ体操もいいかもしれませんね。まさか北千住が、ラジオ体操の発祥の地だったとは!
さらに北上していきます。いくつかの商店街をとおり、日光街道を西へ(もっとネタはあったのですが、情報過多だったので、本来の「目的」へと急ぎます)。
そして、また荒川方面へと北上を重ねると今回の目的地、大川富士のある大川町氷川神社に着きます。
目的地の神社で待ち受ける富士塚とは?
大川町氷川神社
1294年(仁2年)に千住五丁目川田耕地に素盞鳴命(すさのおのみこと)を勧請したのが神社の始まりとされています。1913年(大正2年)に荒川放水路(現在の荒川)の開削工事のために神社は現在地に移転しました。
境内には、1843年(天保14年)に幕府の命令により漉き返し紙(再生紙)の生産を命じられた時の献上の喜びを歌った記念碑「紙すき碑」(足立区登録有形文化財)、放水路開削で架橋された初代千住新橋の親柱があり、1905年(明治38年)に新しい用水ができ、新しい田畑を開くことができる喜びを綴った「千住新渠の碑」などがあります。
大川富士
元は、町の西北(元宿)の川田耕地にあり、同じ境内に氷川社・稲荷社・浅間社が鎮座していたといいますす。1911年(明治44年)の荒川放水路の開削工事開始に伴い、1916年(大正5年)に現在地よりやや西側の土地に移築されたそうです。その後、東京都の水道幹線工事に伴い、1968年(昭和43年)に現在の場所に再度移築され復元されました。高さ3mほどで、現在も登れる富士塚です。
今回は、あえて登山ルートに神社巡りを組み込んでみました。かつて宿場町であった千住には多くの歴史が残されています。そんな歴史の一端に触れることができたらと思ったわけです。
たった数時間の山行とはいえ、街の歴史を知ると、そこにある山もぐっと身近なものに感じられる気がします。大川富士、高さ3mながら良い山でした。いつか、登山の前後に、ラジオ体操発祥の地で夏休みの子供たちとラジオ体操をしてみたいな。
次回は足立区の柳原富士です。