FILE.94は、足立区の綾瀬富士です。
第94座目「綾瀬富士」
今回の登山口は、東京メトロ・JR綾瀬駅です
今回の登山口(最寄り駅)は、綾瀬駅駅東口。東京メトロ千代田線とJR常磐線が乗り入れている駅です。今まで来たことがなく、いったい綾瀬駅には何があるのだろうと思いながら降り立ったのでした。
今回の目的地は、綾瀬稲荷神社。寄り道せずに目指すと、綾瀬駅からわずか200mほどの距離です。とはいえ、隣の駅から歩こうかと思って地図を見ると、なんとも微妙に遠い感じです。結局、綾瀬駅周辺で面白そうな書けるネタがたくさん見つかることを祈り、少し遠回りしつつ綾瀬稲荷神社を目指すことにしました。
綾瀬駅は、東京メトロとJR東日本の共同使用駅ですが、駅自体は東京メトロが管轄しています。そのため、以前はJRの駅数には計上されていなかったそうです(現在は、JR東日本の公称駅数に綾瀬駅も含んだ数になっています)。なお、東京メトロの路線の中では最も初電が早く、唯一5時より前に発車始発のある駅です。さらにちなみに、綾瀬駅は足立区と葛飾区の境近くに位置しているので、駅の南側は葛飾区、北側は足立区となっているそうです。
といった綾瀬駅のうんちくを記し、早速出発します。すんなり歩くとすぐ到着するので、きっと何かあるはずと東綾瀬お祭り広場の手前にある緑地を進んでいきます。が、手前の1ブロックが工事中で特に目立ったものが何もなく、そのまま進んでいきます。
目的地までのわずかな間に…
綾瀬駅東口を出て少し歩くと、東京武道館があります。元は東綾瀬公園の中の草野球場だった敷地に、1989年に建築家の六角鬼丈による独特の前衛的な外観の東京武道館が完成しました。
東京武道館は「雲海山人」という言葉をコンセプトに、日本の情景にある山海の自然観や空の雲のような精神的な風景をひし形のモチーフを使って表現したデザインとなっているそうです。 また、東京武道館の敷地内には5人のアーティストがそれぞれ「地・水・火・風・空」という自然の要素をテーマに作ったアートが配置されています。ちなみに、隣接する足立区立東綾瀬中学校の体育館は、東京武道館のひし形のモチーフを使っているそうです。
東京武道館を過ぎると、綾瀬駅と並行するように進み、特に何もない通りを進んでいきます。予想通りというか、期待が外れてというか、特に何もなく、不安が尽きません。その通りから、綾瀬稲荷神社方向に路地に入っていきます。
すると、店頭に自転車がズラッと並ぶ「名物やきとん とみちゃん 綾瀬本店」がありました。僕の母は、親戚の中で「とみちゃん」と呼ばれています。ということもあり、なんとなく親近感がわいたのでした。調べてみると安くて美味しい、地域の評判店のようです。焼いたモツも、煮たモツもめちゃくちゃ美味しそう。モツ好きなので気になりますが、ここは先へ進みます。
続いて目に止まったのは、稲荷山・蓮華院観音寺。真言宗豊山派のお寺で、開山は賢智上人、17世紀初頭に創建されたといわれています。
江戸時代初期、現在の綾瀬駅周辺は、金子五兵衛により開拓されました。そんなこともあり、金子五兵衛の名前をとり、この一帯は五兵衛新田と呼ばれていました。残念ながら現在は地名としては残されていないようですが、この観音寺は金子家を始めとする村民たちの菩提寺となっていたそうです。
また、この観音寺は新撰組とゆかりがあります。1868年(慶応4年)3月13日の夜から4月1日までの19日間、近藤勇と土方歳三に率いられた新選組の一隊が、五兵衛新田に屯所(とんしょ)を設けました。到着した時、人数は48名でしたが、土方が到着した15日に100名を越えてから急増して、4月1日には227名に達したそうです。このため、五兵衛新田名主見習金子健十郎の屋敷では収まらず、村内の新宅、滝次郎宅と観音寺の3か所へ分宿することになったそうです。
その屯所へは、魚や野菜、菓子類などの食材をはじめ板や釘などの用材、草鞋や茶碗・風呂敷などの雑貨、薪や油など燃料にいたるまで様々な物資が供給されたそうです。五兵衛新田が村をあげて屯所経営にたずさわったのは、「御上様御奉公筋」、つまり幕府への奉公となると考えていたようです。
その観音寺を過ぎ、道なりに観音寺の裏手にまわると、直ぐに今回の目的地、綾瀬稲荷神社が見えてきます。
目的地の綾瀬稲荷神社に到着
綾瀬稲荷神社
こちらの神社は、江戸時代の初めに村人が浄財を出し合い、伏見稲荷より分霊を勧請して1614年(慶長19年)に創建されました。 ちょうど豊臣氏と徳川氏とが争った「大坂冬の陣」の年にあたります。江戸時代は「稲荷神社」といい、1874年(明治7年)に「五兵衛神社」、1967年(昭和42年)には「綾瀬稲荷神社」と改称したそうです。400年の長きに亘り、地域の氏神としてあがめ敬われています。
綾瀬富士
綾瀬稲荷神社の境内にある富士塚は、「綾瀬富士」または「五兵衛富士」と呼ばれ、築造は1927年(昭和2年)。富士山の北麓からボク石(溶岩塊)を西新井駅まで貨車で輸送し、さらに馬車で運び入れて築山されたそうです。
高さは約3.5メートル、富士塚を築造したのは、麻布の包市郎兵衛が興した、山包講(やまつつみこう)の枝講である「山包丸渕講」。現在は「山包綾瀬講」と呼ばれています。23区内で唯一の山包講ですが、千葉県の市原や館山には今も多く残っているそうです。
今回、いつにも増して「ネタが足りるのだろうか」と心配しながらの山行となりましたが、そんな心配は不要でした。何より、こうして現在も富士講があり、富士塚を守ってくれる人たちがいるおかげで、古くからの地域の歴史を知ることが出来ます。このまま次の世代にも受け継がれることを願っています。
次回は足立区の五反野富士です。