FILE.98は、足立区の西新井富士です。
第98座目「西新井富士」
今回の登山口は、東武伊勢崎線西新井駅東口です
今回の登山口(最寄り駅)は、三度目となる東武伊勢崎線西新井駅。前々回と同じ東口からの出発になります。東口を出たら前々回の島根富士とは反対方向、王子金町市川線を歩いていきます。
実は、今回の目的地である西新井浅間神社の最寄り駅は他にあります。東武大師線大師前駅です。ただ、最寄り駅から目的地まで近すぎるという事もありますが、何より東武大師線は西新井駅と大師前駅を結ぶひと駅だけの路線なのです。
不遇の東武大師線
東京23区内にある旅客営業路線では、京成金町線、西武豊島線と並んで数少ない全線単線路線です。大師前駅は、大正時代、東武伊勢崎線と東上線を結ぶ連絡線上の駅として開設されます。しかし、その連絡線案が進展しないうちに様々な問題が起きました。
関東大震災による既存路線の被災復旧を優先したこと、当時建設中だった荒川放水路の堤防などの護岸整備が完了しておらず架橋の設計ができないこと、荒川放水路と隅田川を跨ぐ橋梁の建設費用の問題、予定地の町関係者からの経路変更要求への対応画策などの問題などなど…。
それらの問題への対応に忙殺されているうちに大正末期から昭和初期にかけて路線予定地が急速に市街地化されたため「建設費が高額となり、採算の見込みがない」との理由で、西新井 – 大師前間開業の翌年、1932年に鹿浜 – 上板橋間を廃止。大師前 – 鹿浜間については「工事竣工期限延期願」を関係省庁に提出していたそうですが、1937年6月に不認可とされ、現在に至るそうです。
ちなみに、東武大師線の乗車区間は1 km、1991年には西新井駅近辺を除き高架化されたため、東武鉄道では唯一踏切が全線において一つも存在しない路線だそうです。
避けては通れぬ「関東の高野山」
高架橋を越え、王子金町市川線をそのまま進んでいくとお寺が現れました。気になったのでちょっと立ち寄ってみました。
迦羅陀山千蔵院満願寺です。西新井町真言宗総持寺の末寺だったそうですが、1939年(昭和14年)、総本山長谷寺末寺に改称されたそうです。
創立は不詳ですが、本尊地蔵縁起に、「天正二年七月二四日、不思議な廻国の異形の翁、延命地蔵を負い来り、時の住職覚雅に授く。学雅以って、当寺の本尊とする」とあるので、人皇五五代文徳天皇の臣、参議小野篁卿 の作と伝えられています。1573~1592年の間に創建されたのではないかとのことです。
満願寺を過ぎると、西新井税務署の前を通り、そのまま進んでいきます。少し進むと東武大師線の大師前駅付近に差し掛かります。商店街が見えたので、王子金町市川線から路地に入っていきました。
そのまま進んで郵便局を越えると、古びた酒屋さんが目に入りました。もう営業していないのかなと思ってのぞいてみると、酒屋さんではなく赤ちょうちんのようなお店。すみません、まだ現役バリバリの様子でした(ネットで調べた限りだと今も営業しています)。
トタンの壁が錆びついて、ザッツ昭和の酒屋さんといった外観の「伊勢末酒店」。昭和は昭和でも昭和30年代を彷彿させる感じです。ぱっと見た感じでは、酒屋さんの脇にある角打ち(立ち飲みスペース)のような感じです。
手書きのお品書きがまたいい味わいを醸し出しています。山へ向かう途中だし、さすがにお昼から入る訳にもいきません。でも、映画のセットのような雰囲気で楽しむお酒、おいしいんだろうな。機会があったら、また来ます。
路地をそのまま進むと、参道らしき通りに出ました。きっと西新井大師は近いと思い、寄り道することにしました。参道には定番のお土産屋さんだけでなく、カフェなどのオシャレなお店も並んでいます。
お土産屋さんのお姉さま方に「お土産いかがですか?」と声を掛けられ、反応しないのもそれはそれで失礼なのかなと思い、軽く愛想笑いして会釈しながら通り過ぎます。何だか恐縮しながら、西新井大師に到着するのでした。
西新井大師
西新井大師の正式な名は、總持寺(そうじじ)。真言宗豊山派の寺ですが、西新井大師という通称の方が広く知られています。山号を五智山とし、寺名は詳しくは五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)と称するそうです。古くから「関東の高野山」とも呼ばれるほどで、毎月21日には縁日が開かれています。
かつて空海(弘法大師)が関東巡錫の途中に西新井を通りました。この時本尊である観音菩薩のお告げによって本尊の十一面観音を彫り、826年(天長3年)に寺院を建立したことに始まるとされています。江戸時代中期に建立された本堂は、1966年(昭和41年)の火災により焼けましたが本尊は難を逃れました。
本堂は1971年(昭和46年)に再建され現在に至るそうです。川崎大師などと共に「関東三大師」の一つに数えられ、毎年の正月には初詣の参拝客で賑わうそうです。山形に住んでいる僕でもその名前くらいは知っているほど有名なお寺です。
ちなみに、境内には弘法大師によってもたらされたとされる加持水の井戸があり、この井戸が本堂の西側に所在することが地名である西新井の由来となったそうです。
西新井大師をあれこれ見学して満足しかけましたが、今回の目的地はここではありません。また参道を戻り、あらためて富士塚を目指します。路地に入り、住宅街を王子金町市川線と並行に伸びる道路を進んでいきます。すると、住宅街の切れ目に目的地の西新井浅間神社がありました。
住宅街の中の小さな神社と富士塚
西新井浅間神社
こちらの祭神は木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)。社殿の中には、富士山をかたどった石の彫刻が神体として祀られているそうです。創建については、1638年(寛永15年)に富士講が土地を寄付し、そこに富士山本宮浅間大権現を勧請したのがはじまりといわれています。
かつては、富士講と密接な関係がありましたが、1935年(昭和10年)頃に自然と関係が解消されていったそうです。
浅間神社の境内には、コンクリートの敷地の上に小さな本殿がぽつんと鎮座していました。辺りを見渡すと、なにやら石碑があります。草に覆われていて気付かなかったのですが、石碑の周りにはボク石(溶岩)が散らばっていました。
富士塚の痕跡らしきものを目にしつつ、少し想像をたくましくして今は無き西新井浅間神社と西新井富士のありし日の姿を思い描いてみました。もしかしたら昔は本殿も今より大きく、その脇にきちんと富士塚もあったのかもしれません。
足立区内には今なお富士塚がたくさん残されていますが、一方で時代とともに姿を消してしまう富士塚もあります。現在の西新井富士の姿は残念ですが、それでも富士塚の痕跡らしきボク石を目にすることができました。ここに確かに富士塚があったと感じられ、足を運んだ甲斐があったと思いながら、この山行を終えたのでした。
次回は足立区の伊興町富士です。