【三浦豪太の朝メシ前】第1回 北海道への移住を決意
プロスキーヤー、冒険家 三浦豪太 (みうらごうた)
1969年神奈川県鎌倉市生まれ。祖父に三浦敬三、父に三浦雄一郎を持つ。父とともに最年少(11歳)でキリマンジャロに登頂し、さまざまな海外遠征に同行し現在も続く。モーグルスキー選手として活躍し長野五輪13位、ワールドカップ5位入賞など日本モーグル界を牽引。医学博士の顔も持つ。
【三浦豪太の朝メシ前】というタイトルの由来
ビーパルは僕の愛読誌のひとつで、キャンプ好きの僕には参考書的な存在だ。また連載している本田亮さんやホーボージュンさんは良き友人だ。
彼らの書くコラムの、ユーモアに溢れながらも鋭い視点や物事の切り口にいつも感嘆している。彼らの人となりがよく出ている上、実際に会っているとき以上の深い知見が滲み出ており驚かされる。同じ媒体で連載するのは、僕にとってプレッシャーでしかない。
そんな中、養老孟司さんの講演会を聞いてきた。解剖学の最先端に身を置きながら、昆虫を通じて自然科学にも精通している養老先生は「人は常にインプットだけではなくアウトプットが大事」といった内容の話をしておられ(正確な記述ではないが)、最近の自身を振り返り大いに反省しなければいけないと思った。
日経新聞での僕の連載(「三浦豪太の探検学校」)が終わったのはもう5年前のこと。その後もたくさんの大きな冒険から小さな冒険をしてきたのだが、アウトプット不足は否めない。
それらはまるで溜まった宿便のように頭の中に凝り固まっていて脳の機能不全を起こしているようだ。こうした状況を、みなさんに近況の報告も含めながら共有することで解消したい。
まずは、このコラムのタイトル【三浦豪太の朝メシ前】の由来について話してみたい。長いコラムの序章だと思い付き合ってください。
2021年。コロナ禍の最中に、家族で北海道に引っ越した。
それまで住んでいた神奈川県の逗子は目の前が海岸で、すぐ横に田越川が流れていた。近くには鎌倉アルプスともいわれる天園ハイキングコースや金沢古道があり、山と海を近くに感じられる格好の遊び場だった。しかし、そんな完璧とも思える逗子にも欠点があった。それはスキー場が遠かったことである。
僕はプロスキーヤーだ。仕事であればその期間スキー場に滞在してスキーを教え、イベントで滑る。しかし、そうでないときにスキーをするとなると大変だ。
車なら圏央道や関越道を通り、比較的近い苗場や水上でも3時間、電車だと東京から新幹線に乗り換え越後湯沢まで同じく3時間かかる。これが週末となると大渋滞となりさらに時間がかかり、電車だと立ち乗りだ。
こうして、冬には「スキー場がもうちょっと近くにあったらな〜」と思い、夏が来ると逗子の海や山を満喫して「逗子最高!」といいながら海やら山やらを楽しむ。でもまた冬になると「雪国に住みたい」衝動が芽生える。この症状は年を追うごとにどんどん悪化してきた。
そして2019年、父との南米、アコンカグア遠征があった。1月1日に出発して遠征が終わったのが1月28日。冬のシーズン真っ盛りで帰ってきた僕は、それまで7000mの薄い空気のなか喘ぎながら登山を終えたばかり。
肉体的にも精神的にも疲れているはずなのに朝の3時に突発的に起きて、車でかぐらスキー場に向かった。朝イチバンのゴンドラに乗り、夕方まで日帰りスキーをしてきたのである。車で帰りの関越道を運転しながら「これはもう病気だな」と思った。
父、「三浦雄一郎」のこと
エベレストに七十歳を超えて三度も登った父も、この年、齢90歳を間近にしていた。アコンカグア遠征では持病の心臓の状態が思わしくなく、ドクターストップがかかってしまった。いつもは優しく温和で柔軟な父だが登山のことになると諦めが悪い。
標高6000mのキャンプコレラで「登る」「やめよう」の押し問答が続き、さらに1時間ほどの気まずい沈黙……。最後には諦めて降りるも、ちゃっかりとガイドの倉岡さん、同じくガイドの平出君と僕は山頂に登った。
父はこの遠征で登れなかったことが悔しかったのか、下山後すぐの記者会見で「アコンカグアに登れなかったことが、反対に90歳になったらエベレストに登る自信がついた」と、父らしい不思議な思考回路で自身を次のチャレンジに奮い立たせていた。
しかし、その1か月後めまいを感じた父は自ら病院に行き脳チェック(検査)を受けた。その結果、軽度の「ラクナ梗塞」という脳梗塞と診断された。幸い発見が早かったことと軽度だったため、簡単なリハビリと薬を飲むことで治療ができた。
父はふだん札幌に住んでいる。札幌にいるときは母が文句をいいながらも、三度の父の食事を作り夫婦生活をしている。しかし、ふたりとも90歳になろうとしていた。いつまでも元気でいられるわけがないと思い、父の病気をきっかけに兄弟3人で話し合い、ローテーションを組みながらふたりのケアをしようということになった。
ラクナ梗塞から1年経ち、大野病院(現、札幌孝仁会記念病院)でチェックアップがあり、その当番で僕が北海道に行くことになった。夜10時ごろに到着すると、父から「お〜、ごん、明日一緒にゴルフ行こう」と誘われ、元気そうな父の姿を見て少し安心した。
だが、夜中に父の大音量のテレビの音に起こされた。最初は耳が遠くなった父が夜中にテレビを見ているのかと思ったが、その間に「おーい」というか細い声が聞こえる。父の寝室に行くと「体が痺れて動かない」という。
ただごとではないと思い、救急車を呼び、すぐさま、翌日に脳チェックをお願いしていた国際山岳医である大城和恵先生に電話をし、朝の4時に病院に運び込まれた。精密検査の結果、「頸髄硬膜外血腫」という病気であることがわかった。これはなんらかの要因で頸椎が傷つきその内部に血液が流れ込み神経を圧迫、全身に痺れが伴うことになる。100万人にひとりの割合で発症する珍しい病気だ。
父の場合、身体中に麻痺が出て、特に右半身の痺れが強かったため、急遽、頚椎の病気に詳しい北海道医療センターに運び込まれ、緊急手術を受けることに。手術は成功したものの痺れは残り、この日を境に父は要介護4と認定され身体障害者手帳を持つことになる。
父がこうした状況になったこと、そして僕自身、スキーヤーとしてスキー場の近くに住んでみたいと考えていたことが重なり、意を決して「太陽が生まれたハーフマイルビーチ」の逗子を後に北海道に引っ越すことになった。
父が泣く泣く断念したアコンカグアに、僕らサポートスタッフは登頂しました!
2019年、父を除くサポートメンバーとともに南米最高峰「アコンカグア」に登頂。左から4人目が僕。左端の平出和也さんと右端の中島健郎さんは今年7月、K2西壁未踏ルートで滑落。
アコンカグアをバックに父と記念撮影。標高6000mのキャンプ地でドクターストップが。
※構成/山﨑真由子
(BE-PAL 2024年11月号より)