第3話「生きるための火」
ギア「MONORAL / WireFlame 」
助かった……。
波濤の向こうに目指す島影が見えたとき、僕の心に浮かんだ感情はもうそれだけだった。何度も冷たい波を被り、すでに指先の感覚がなくなっていた。両腕の筋肉は硬く強張り、ギシギシと音を立てている。それでも休むことなく漕ぎ続けたのは、この強い向かい風の中で、わずか数秒でもパドリングを止めてしまったらもう一生陸に上がれないのではないか、という恐怖心からだった。
やがて鉛色をした島の砂浜が眼前に近づいてきて、最後にザザザーッという鈍い音とともにシーカヤックのバウ(船首)がそこに乗り上げた。それまでの胃袋がせり上がってくるような不快な浮遊感がヒタと消え、しっかりした大地の感覚がシートを経て尻に伝わった瞬間、僕はもう一度「助かった」と思った。ああ、よかった。今日もなんとか辿り着いたのだ、と。
凍える手でスプレースカートを外し、ヨレヨレとコックピットから這い出した僕は、カヤックをタイドラインまで引きずりあげるとそのまま薪集めに取りかかった。濡れた体がどんどん冷えている。のんびり感慨に耽っている余裕はないのだ。
さいわいこの無人浜にはたくさんの流木が流れ着いていて、ほんの数分で抱えきれないほどの薪を集めることができた。僕はその中から一番太い丸太を選んで海風に対して直角に横たえると、風裏になった丸太の腹に細い竹や小枝を立てかけた。そして防水バッグの中からケミカル着火剤のチューブを取り出してドボドボと小枝にふりかけ、ターボライターで火をつけた。
これが森の中ならば松ぼっくりや白樺の表皮を着火材に使うところだが、小雨交じりの偏西風が叩きつけるうらぶれた海岸にそんな風流なモノはない。僕は燃え上がった小さな炎に、足で叩き割った竹竿やビニールゴミを次々とくべていった。漂流物の中ではこれらが最も手っ取り早く燃えるのだ。
やがて炎は大きくなり、僕の青ざめた顔をオレンジに染めた。全身からモワモワと湯気が上がり始めると「助かった」と、この日3度目の安堵が漏れた。
もう少し体が温まったらテントを立てて乾いた服に着替えよう。そんなことを考えながら僕はひたすら薪をくべ続けた。
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厳しい海洋遠征や無人島でのビバークでは、焚き火は「生命線」である。とくに寒い季節や海水で体が濡れている場合は、低体温症のリスクがある。また焚き火は湯を沸かしたり調理をするのにも欠かせない。だから「なにはともあれ焚き火を熾す」というのは海や川の旅では鉄則中の鉄則なのだ。
僕は無人地帯では直火も使うが、ニンゲンの出入りがある場所では極力焚き火台を使うようにしている。最大の目的はもちろん景観保護だが、焚き火台を使ったほうが火力をコントロールしやすいし、炎の位置が上がるので調理や暖を取るのに便利なのだ。もう30年以上焚き火をしているから焚き火台もいろいろ持っているが、人力旅で一番よく使うのはモノラルの「ワイヤフレーム」という製品だ。
これはステンレス製の4本脚フレームにワイヤーを使って耐熱クロスを吊り下げるユニークな構造をしている。薪をくべるとクロスが立体的に変形して箱状になるため、熾火が落ちたり風で飛んだりせず安定して燃焼する。また折りたたむと長さ30㎝ほどの筒状になり、コンパクトに運べるのもいい。
この焚き火台を考案した角南健夫さんは僕の弟の友人で、2010年に“連れて歩く焚き火台”を作ろうとこのアイデアを思いついた。僕は当時からもう15年近く使い続けているが、現在のワイヤフレームシリーズは重量100gの超軽量モデルからダッチオーブンをのせられる大型モデルまでバリエーションが広がり、人力移動の旅人だけでなく、オートキャンパーにも大きな人気を得ている。
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先日、秋の連休が終わって静けさを取り戻したビーチで、僕はひとりで焚き火を熾した。
暮れゆく浜にはもう誰もいなかった。トンビやカモメも姿を消し、視界のなかで動くものは寄せては返す白波だけだ。
真西に向かって開けた浜からは落ち行く夕陽がよく見えた。水平線には薄い雲がかかり、夕焼けはまだそれほど赤くない。しかし貸し切りのビーチで焚き火の炎越しに見送る夕陽ほど、ぜいたくなものはないだろう。
今日の僕は完全に乾いている。指先も凍えていないし、足元には大地が広がっていた。腹は満たされ、酒も少し飲んだ。遠征中の切羽詰まった感じはどこにもない。平和に、まったりと、今風にいうならとても“チルに”焚き火を愉しんでいた。
生き延びるための焚き火と、生を愉しむための焚き火。両者には大きな違いがある。
でも、宇宙からみたらきっと変わらない。理由や目的がなんであれ、ちっぽけなニンゲンの営むちっぽけな炎だ。
やがて夕陽が世界をオレンジに染め上げた。そのまばゆい光の前で、僕の小さな焚き火はないも同然だった。炎の輪郭があやふやになり、やがて夕陽の中に溶けて見えなくなった。
僕はそこに流木をくべた。
そして炎の舌が流木を舐めるように包み込んでいくのを、ひとり静かに見守っていた。
ホーボージュン
大海原から6000m峰まで世界中の大自然を旅する全天候型アウトドアライター。X(旧Twitter)アカウントは@hobojun。
※撮影/中村文隆
(BE-PAL 2024年12月号より)