FILE.109は、北区の堂山横穴墓です。
第109座目「堂山横穴墓」
今回の登山口は、JR赤羽駅南口です
その昔、赤羽北部の岩淵は岩淵宿として発展していました。一方、現在の赤羽駅周辺は宿場町ではなく単なる集落だったそうです。明治時代、鉄道が岩淵ではなく赤羽につくられたことで赤羽駅が交通の要所となり発展していきました。赤羽は明治のころには埼玉県浦和の一部でしたが、1932年に東京市王子区(現・東京都北区)に組み込まれたそうです。
実は、今回の登山口を北赤羽駅と赤羽駅、どちらにするか悩みました。では、なぜ赤羽駅を登山口にしたかというと、北赤羽駅からだとルート上の大半を住宅街を抜けることになったからです。今までの経験上、住宅街ではこれといって書くことのないネタ無し地獄に陥ることが多く、精神衛生上よくないのです。
ということで、多くの人が行き交う赤羽駅登山口を出発。天気予報では曇りでしたが、朝から雨模様で傘をさす多くの通勤客と逆方向に歩いていきます。
赤羽並木通りに合流し、そのまま進んでいくと、階段が見えてきました。登りきり、東洋大学とUR都市機構ヌーヴェル赤羽台の大きな建物の間を進んでいきます。ここが赤羽なのか?と思えるほど綺麗な通りを歩いていきます。って、地元の方に失礼な書き方ですみません。僕の中の赤羽は、落ち着いた街並みというより、わいわいガヤガヤ賑わっているイメージなのです。
ちょっとずつ雨が強くなってきました。そのまま綺麗な街並みを横目に赤羽並木通りを進み、北区立赤羽緑道公園へ歩みを進めます。
細長い赤羽緑道公園ですが、廃線となった軍用貨物の線路跡を利用してつくられたそうです。線路にちなみ、赤羽保健所通りに架かる橋の欄干には、車輪のデザインがほどこされています。
赤羽緑道公園を進んでいくと、赤羽八幡神社が見えてきます。赤羽八幡神社は、784(延暦3)年に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)がこの地に陣を張ったことがきっかけで、3柱を勧請し創建されたそうです。その後は、源頼光、源頼政、太田道灌と太田一族により再興されたそうです。また、明治初期までは赤羽総鎮守だったそうですよ。
そんな赤羽八幡神社、実はエイターの聖地なんだそうです。エイターって?と思い調べてみると、スーパーエイト(旧関ジャニ∞)のファンの総称だそうです。御朱印やお守りに∞の文字が記されていることがエイターの間でも話題になり、スーパーエイトのファン、エイターの聖地となったそうです。
その赤羽神社をぐるっとまわってくると、神社の入口の直ぐ上の坂道に出ます。かなりの遠回りになるのでお急ぎの方は坂をそのまま登っていけばショートカットできます。ちなみに、八幡神社を星備学園方向への登っていく坂には、師団(しだん)坂という名前が付いています。
師団坂
旧陸軍の近衛(このえ)師団に所属した2つの工兵大隊に向かう坂道だったそうです。1887(明治20)年に工兵大隊が現在の丸の内から赤羽台に移転した時に、この坂がつくられました。現在は、坂の上の練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地に変わったそうです。
師団坂通りをそのまま進むと、北区立赤羽台4丁目公園が見えてきます。師団坂通りと反対の、稲荷の坂を下っていきます。すると、郷倉稲荷(ごくらいなり)があります。
江戸時代、ここには袋村の郷蔵(ごうぐら)があったそうです。郷蔵は、凶作に備えて穀物を保管した倉庫のようなものだとか。1918(大正7)年に郷倉があった地に石造の鳥居と一対の狐像ができ、現在では「ゴクライナリ」とよばれる稲荷社の社地となっています。
郷倉稲荷を、北区立赤羽北保育園方向に進むと、門が閉められた石段が見えてきました。ここが今回の目的地、堂山です。
目的地の堂山に到着
堂山がある赤羽台地には、星美学園の敷地内の古墳群ととともに、北区遺跡番号3堂山横穴墓がありますが、満蔵院墓地の敷地内です。現在は、入り口が閉められ、関係者以外が立ち入ることができなくなっています。堂山は、堂山横穴墓という古墳だったのです。
しかし、実はこの堂山、その昔、頂上に阿弥陀堂が建てられていたことで阿弥陀堂山を呼ばれていたそうです。つまり、略して堂山。そして、この阿弥陀堂には、八百比丘尼(やおびくに)が住んだと伝承されているのだとか。
※やおびくは伝説上の人物で、人魚の肉などを食べたことで不老長寿を手に入れたとされ、その伝説は北海道と九州南部以南を除くほぼ全国に分布しているそうです。
堂山は、何も知らずに見ると住宅街の中のこんもりとした丘ぐらいに思えるかもしれません。でも、古来は古墳、その後は堂が建つ山として地域に存在し続けました。そんな土地の近代史を踏まえて眺めると、とても奥行きがあって面白い山であることがわかります。昔から、山は人々の生活に密着して存在していたんですね。
次回は北区の稲付城です。