FILE.110は、北区の稲付城跡です。
第110座目「稲付城跡」
今回の登山口は、JR東十条駅北口です
今回の登山口=最寄り駅はJR東十条駅。初めて降りました。地図で確認すると十条駅と東十条駅は歩ける距離で、実際に歩いている人が多くいます。馴染みのない東十条はどんな場所なんだろうと調べてみました。
東十条は、1871(明治4)年に浦和県(現埼玉県)から東京府に編入。大部分が北豊島郡王子村に属する区域だったとか。王子町は1932(昭和7)年に東京市へ編入され王子区へ。大字上十条・大字下十条は上十条町・下十条町となります。1939(昭和14)年には上十条町・下十条町のそれぞれ一部が東十条となりました。そして1947(昭和22)年に王子区は滝野川区と合併し北区が誕生します。北区に滝野川の名前が多くあるのは、この名残なのでしょうね。
ということで、東十条駅北口を出て階段を降り、線路沿いの道を赤羽方面へ歩いていきます。階段を降りると車1台がやっと通れるような細い道です。
北口を出て、今度は階段を登ると旧岩槻街道に出ます。さて、どちらを行くかとお悩んだのですが、線路沿いの道の方が何かありそうでしたので、そちらを進みます。地図上では分からなかったのですが、線路沿いに進むこのルート、実は急斜面に建つ住宅地と線路に挟まれた道だったのです。失敗した…と思いつつ、諦めて歩き始めることにしました。
線路は、高崎線・湘南新宿ライン。東北本線・宇都宮線、東北新幹線など多くの車両が通りますので、結構な間隔で車両を見ることができます。とはいえ、反対側は住宅。書けそうなネタはないかとキョロキョロしながら歩いていると、住宅地の間に小さな神社、荒澤不動を見つけました。
何やら不思議な鳥居で、変な方向を向いています。なんだろうと調べると、これは「冠木鳥居」らしいです。一般的な鳥居は笠木と貫の2本の横木でつくられていますが、こちらの横木は1本です。鳥居は神社にとって神域と人間が住む俗界を区画する結界で、神域への入口を示す「門」の役割を果たしてるといわれています。全国的にみると、他にもいろいろ変った門はあるようです。
さて、この荒澤不動ですが、なんと山形の出羽三山の一つ、羽黒山にある不動だそうです。その昔、この地域で病が流行し、なかなか収束しませんでした。そこで霊験ある羽黒山中にある荒澤不動を分霊して迎えたそうです。
残念ながら、もともとあった不動さまの敷地と池は、十条地区の都市化に伴い線路にかわり、西音寺の敷地だった現在の場所に移転したそうです。何もないと思っていた北区の住宅街で、自分が生まれ育った山形と深いつながりのある不動さまと出会うとは。もしかして不動さまに導かれたのでしょうか。
そのまま線路沿いを歩き、平和橋陸橋の下をくぐりって進むと、八幡山児童遊園沿いの旧岩槻街道と合流しました。八幡山児童遊園は、FILE104で紹介した八幡山の麓にある公園です。
旧岩槻街道を赤羽駅方面に進んでいきます。線路をくぐると、清水坂公園の北から赤羽駅へと繋がる稲付遊歩道(JR京浜東北線西側にある道)が見えてきますが、そのまま旧岩槻街道を進みます。
この旧岩槻街道の道沿いには、いろいろな見どころが点在しています。以下にいくつか紹介します。
普門院
旧岩月街道から少し入ったところにある真言宗の寺院。竜宮城にも似た山門がある。1307(徳治2)年に開基と伝えられる長い歴史を持つ寺院だそうです。ブッタガヤ様式らしき仏塔は一見の価値あり!です。
稲付村の一里塚
日本橋から日光まで続く日光御成道(おなりみち)の三里目の一里塚だそうです。1604年ごろに江戸幕府の指示により設置されたものだそうです。一里目の塚は文京区本郷に、二里目の塚は 北区王子の西ヶ原一里塚に、そして三里目の塚が稲付村の一里塚となるそうです。
稲付の餅搗唄
稲付の餅搗唄(もちつきうた)とは、古くから住民が餅をつく時にうたった作業唄だそうです、現在は、毎年初午祭りのときに道観山稲荷講の人たちによってうたい継がれているようです。
どうしても住宅街を通るとなると、特筆すべきことが見つからず焦る…という過去の経験がよみがえって不安にかられがちです。でも、今回はそれなりに成果もあって楽しく歩くことが出来ました。一安心。
はたして目的地の城跡…!?
実は、今回の目的地である稲付城跡は、静勝寺の敷地内にあります。お寺の参道を登る階段に稲付城跡の石碑があり、階段を登った先にある門の脇には、稲付城の説明版が設置されていました。
稲付城
稲付城は、太田道灌(おおたどうかん)が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。1987(昭和62)年には、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、城の空堀が確認されたそうです。また、静勝寺には1687(貞享4)年の「静勝寺除地(よけち)検地絵図」があり、境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれてたとか。
この付近には、鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられ、街道上の主要地点でした。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたようです。
静勝寺
もともと太田道灌の築いた稲付城の跡で、道灌の禅の師匠であった雲綱(うんこう)が、 非業の死を遂げた名将の菩堤を弔うためにこの地に草庵を結び、道灌寺と名付けたのが起源だそうです。
稲付城は、徳川家康が江戸に移った1590年まで存在したそうで、寺となったのはその後になるそうです。道灌六世の孫太田資宗(おおたすけむね)が境内を整備し、寺域を除地(免税地)とすることを認められました。その際、資宗は山号と寺号をそれぞれ道灌と父道真(どうしん)の号の名をとって静勝寺としたそうです。
ということで、稲付城ならびに静勝寺は、この連載でもたびたび登場する名将、太田道灌ゆかりのお寺であり城でした。山城がお寺に様変わりすることもあると知り、とても勉強になる貴重な山行となりました。
次回は練馬区の氷川神社の富士塚です